背後からは絶えず食器のぶつかり合う音が聞こえてくる。なんだか居心地悪く、ぼくはソファの上で縮こまりながらリモコンのボタンを押しまくっていた。ころころと変わるニュース、バラエティ、音楽番組を流し見しつつ台所に立つ彼に注意を向ける。
 すっと姿勢良く伸びた背。狭苦しい場所を動き回りながらあっちで野菜を切りこっちで卵を割りしている。しかもなんとふりふりのエプロン姿で。
 どでかいリュックからかわいい薄ピンク色のそれを取り出したときは何を血迷ったのかと思ったけど、たぶんぼくを喜ばせようとして持ってきたものなんだと考え直し素直に「かわいいね、君に似合いそうだ」と褒めてあげた。するとあいつは即座に眉を上げ「これしかなかったんです。別に好きで着るわけじゃありません! 」と言い放ちエコバックをひったくるとむくれ顔でさっさと台所に入ってしまった。
 よくわからない奴だなあ、と思いつつ忙しく立ち働く彼を肩越しに観察する。しゅわしゅわ、ジャーと何かをフライパンで焼く音がする。立ち上る肉のいい香り。金持ちだから、きっといい肉を買ってきたに違いない。料理に、いや自分の好きな事に関してはどんな些細な事でも妥協しないのが彼のいい所だ。そして悪い所でもあるんだけど。
 そういえば毎日自分でお弁当を作ってるって言ってたな。やっぱり料理上手なんだなあ。いいなあ。結婚したら毎日おいしい料理を作ってもらえるんだろうなあ。細い腕でフライパンを懸命に操る彼。妙にしっくりくるし、なんだか見てて楽しい。……もしぼくがお嫁さんに貰ったら毎日あいつの手料理が食べられるんだ。そうなったらきっと、今よりもっと楽しいだろうなあ。
 また顔が緩んできてしまった。彼に怒られないようにきりっと顔の筋肉を引き締めて、気を紛らわせるようにテレビに向き直った。何気なくチャンネルを変える。と、いきなり画面に大写しになる『結婚』の二文字。少しびっくりしつい音量を小さくしてしまった。背後の彼にちらっと目をやって何も変わりないのを確認してから改めて画面を見つめる。どうやら恋愛を題材にしたバラエティ番組のようで、素人さんの恋人同士がプロポーズをして結婚に至るまでをお手伝いする企画らしい。どこにでもいる普通の男女が喧嘩をしたり仲直りしたりしながら共に歩んでいく姿。最後は男の人が女の人に海辺の公園でプロポーズ。笑いながらぽろぽろ涙を流して女の人は男の人に結婚指輪をはめてもらっている。
 いいなあ、ぼくも指輪をプレゼントしてあげたいなあ。それで結婚したことにできたらもっといいんだけどなあ。まあ、絶対に無理だろうけど。
 セピア色の映像が流れる。再現映像だ。二人が出会った頃の思い出。会社に新入社員として入ってきた女の人とその同僚になった男の人。初めてのことだらけで失敗をしてしまったのを男の人がさりげなくフォローしてくれたから好きになったんだってさ。それで二人は付き合うようになったんだ。
 しみじみとした気持ちでぼくは番組をおしまいまで見てしまった。ニュースに切り替わった所でほっと息を吐き、ぼくはぼくと彼との関係について考え始めた。あれ、そういえばどうしてぼくたちって付き合うようになったんだっけ? そもそもぼくはどうしてあいつのことが好きになったんだっけ? ずいぶん大事なことがすっぽり抜け落ちていることにふいに気付いて狼狽えた。どうしよう、うーん思い出せない。

「ねぇ、ちょっとさ」
 振り返り、鍋を火にかけて腕時計に目を落としている彼に言った。返事はない。聞こえなかったのだろうか。
「あの、ぼくたちってなんで、そのーえっと、恋人? みたいなことになっちゃったんだっけ? 君覚えてる? 」
 反応がない。ビニール袋を破り中身をザルに空けている。ぼくは焦る。
「いや、なんか知らない内に恋人っぽい感じになってるような気がして……。よく考えたらぼくたち男同士だし、ちょっと変だよねぇ。そもそも君がぼくのこと好きになるっていうのからして信じられないというか、ありえないというか、嘘くさいというか…その……」
 無言でずんずんと近づいてくる彼に顔がひきつった。眉毛をきゅっと上げ唇を尖らせている。また怒られると思い身を縮ませていると彼はぼくの目の前のテーブルにがしゃんとザルを置き、そのままくるりと反転して台所に引っ込んでしまった。おそるおそるザルの中を覗いてみると中身は山盛りの枝豆だった。後ろから抑揚のない声が聞こえる。
「暇だったら下ごしらえくらい手伝ってください」
 側に置かれたはさみを手に取ってぼくは枝豆の頭とお尻をちょんぎった。後ろではまたかちゃかちゃと冷たい音が響き始める。ごめん、と口の中で小さく謝りながら黙々と作業を続けた。彼も何も言わず、ただ気配だけが確かにそこにある。
 きっとご飯ができあがればまた楽しくおしゃべりできるようになるよね。それだけを信じてぼくは次々と手に取った枝豆をぶったぎっていく。茹でたとき塩味がよく染み込むようにするためだ。さすが彼はやることが細かい。よし、また怒られないようにちゃんとやらなきゃ。これで嫌われちゃったりしたら悲しいもの。そう思うと何故か鼻の奥がつんとしてきた。口の中が枝豆より先に塩味になってしまった。




 お酒も少し入ってようやく和気藹々とした雰囲気になってきた。
 狭いガラステーブルにぎゅうぎゅうに敷き詰められたお皿。色良く茹で上がった枝豆におろし生姜を乗っけた冷や奴、ふっくら黄色い卵焼き、いかげそ揚げ。そして滅多にお目にかかれない牛肉をたくさん使った野菜炒め。なんと冷蔵庫に残っていたキムチも一緒に炒めてある。全部彼の作ってくれた、いいお酒のおつまみだ。
 あれもこれもと口に放り込みながら、この国の食文化にもだいぶ慣れてきたなあ、なんて呟けば作る人の腕がいいからでしょ、と返された。そうだね、そうだよね、と急いで同意して彼の顔色を窺った。真向かいに座る彼。冷蔵庫で申し訳程度に冷やした缶ビールをちびちびと飲んでいる。ほんのりと赤い頬。ぼくは敷物の上に胡座を掻いているけど彼は立て膝をしてお行儀悪くしている。体が固いのかな。立てた膝の上に腕を預けて伏し目がちに缶の縁に唇を当てる彼。かっこよくて、心臓がどうしようもなくドキドキしてくる。

「そういえば」
 不意に上がった気だるい声に口の中にあった枝豆を一粒飲み込んでしまった。うぐっと変な声を出すぼくを妙な顔で見ながら彼は言う。
「仕事の方は最近どうなんですか。バイト、いくつも掛け持ちしてるんでしょう? あっ、もしかしてすでに全部クビに……」
 ビールで流し込んで息を吐きやっとの思いで言葉を返す。
「憶測だけで物を言うのはやめろって! ちゃんと仕事はしてるよ、そりゃたまに…クビになることもあるけど……でも、今のバイトは結構給料もいいし安定してるんだ。掛け持ちしやすい時間のばっかり選んだ割にはさ、いい感じだよ」
 ふーん、と気の抜けた声を出してまた缶に口を付ける。ぼくは黙って野菜炒めの中から牛肉を引っ張り出す。
「……お金ならいくらでも出してあげるのに」
「えっ? 」
「お金、必要なんでしょ」
 美味しいお肉を頬張りながらぽかんとしてしまう。今、こいつはなんて言った? お金がなんだって?
「大学出たくせに夢を追うためフリーター稼業、なんて今時流行らないんですよ。ほんとに後先考えないノータリンなんだから。まったくこれだからあんたはいつもいつも……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! な、なんでいきなりそんな話になるんだよ! ぼくは別に……」
「うるさい」
 とん、と音を立てて缶をテーブルに置きぎろりと上目遣いに睨む。
「お金ないんなら素直に貸してくださいって言えばいいでしょ。全部とは言わなくても頭金くらいなら支出してあげられます。悪い話じゃないと思いますけど」

 箸を小皿の上に置き胡座を崩す。
 驚いた。こいつがここまで自分を心配してくれてたなんて。ちらと部屋の隅に目を遣る。背の低い棚の上にひっそりと置かれた少女の人形。白い肌に金髪の、フランス生まれの小さな貴婦人。立ち上がり彼女の元まで行き丁寧に抱き上げ取って返した。膝の上に座らせ髪を撫でると彼は嫌なものを見るような目でぼくを眺め回してきた。乱暴にビールを手に取り一気にあおる。いつもそうだ。ぼくが人形を愛でていると彼は決まって不機嫌になる。どうしてかな、こんなにかわいいのに。
 ぼくの夢はそんなかわいらしい彼女たちを直接フランスから連れて来てご主人様の元へ送り届ける会社を作ることだ。まあ、ようは人形の直輸入販売業者を設立したいということだ。大学時代に学んだことを軸にほとんど独学で経営について勉強している。同時に設立資金を得るためのアルバイトに寸暇を惜しんで明け暮れる毎日。大学の留学生仲間には無謀な夢と笑われた。お前は頭が良くないんだからやめておいた方がいい、なんてストレートに言われたこともあった。同じく留学生で学部の後輩だった彼はもっとひどかった。何くれとまとわりついてきて、ぼくの夢を聞いてはいつも小馬鹿にした態度を取った。そのくせぼくが怒ってあっち行け、と言うと急にしおらしくなって、ごめんなさい、なんて言いながらもっとくっついてくるんだから。でもぼくはそれが嫌じゃなかった。そのままなんとなく付き合い始めて今までずるずると。
 ふとさっきの疑問がまた沸いて出てくる。こいつはどうして今、自分と一緒にいるのだろう。三本目のビールを開けた彼の苛立ちを含んだ顔をちらりと見る。怖くなって目を背けた。膝の上の少女の、ふわりとした金髪に指を絡ませながら思う。彼は別に好きでここにいるわけじゃないんだ。ただ、馬鹿な奴が馬鹿なことやって失敗する所が見たいだけなんだ。ぼくと仲良くしてくれるのも、お金を貸すなんて言ってくれるのも、きっと持ち上げるだけ持ち上げといて後でどん底に叩き落とすための布石なんだ。
 自分でもずいぶんと飛躍した女々しい考えだと思った。でもこいつはそういう、人を馬鹿にして楽しむ悪い癖があるから(実際、彼にハメられてひどい目に会わされた奴らを何人も知っている)ぼくがそうならないという保証はどこにもないんだ。どうしよう、どうしよう。悲しさにぐちゃぐちゃになった頭で考える。それでもぼくはなす術なく。無意識に顔が笑みの形に歪んでいた。もう慣れっこの、嘘くさい笑顔。

「ありがとう」
 缶に口を付けたまま上目遣いにぼくを見る。
「気持ちだけ受け取っておくよ。お金はいらない。自分の夢は自分の力だけで叶えたいから……なるべく他人には負担をかけたくないんだ。ぼくだけで、がんばりたいんだ」
 そうですか、とだけ呟いてまた一気飲みする。ぼくは俯いてごめん、と言うしかなかった。そこでこの話はおしまいになった。後は何事もなかったようにご飯を食べて、お酒を飲みまくって、借りて置いたDVD(いんでぺんでんすなんとかいうヤツ)をだらだら流し見して、酔っぱらって絡んでくる彼をなんとか受け流して気付いたときにはもうビールは一本も残っていなかった。六本入りを二ケース空けてしまっていた。びっくりしてテーブルの上にある自分が飲んだ分のかんからを数えてみた。片手で数えられるほどだ。まさかと思いテーブルの上の残りと、床に転がっている分も数える。ぼくの分の三倍あった。げげ、と焦りつつそっとテーブルの向こう側を覗いてみると、仰向けになり静かに寝息を立てている彼が。お腹に軽く片手を乗せ、時折唇をむにゅむにゅ動かしている。顔は真っ赤だ。
 敷物にお尻をつけてぼけっとしながら不思議な気持ちで彼を眺めた。かわいいなあ。今の君は誰がなんと言おうと本当に人畜無害だ。額にかかった長めの前髪。伏せられた目。シャツの袖からすらりと延びる白い腕。今なら何したって怒られないんじゃないか? 火照った体に汗が吹き出る。狭い肩。薄い胸板。そうだ、どうせ騙されているのならこっちから何かしてやったっていいじゃないか。きっとこれも彼の書くシナリオの範囲内だ。こうしてむらむらさせて、襲わせて、依存させて、それで最後に捨てるつもりなんだろ? それでもいい、それでもいいんだ、ぼくは。
 にじりより、その華奢な二の腕に手をかけた。五指が強く肉に食い込む。細い眉がぴくりと動いた。う、と小さく漏れる呻き。唇に被さり、唇で遮った。眉間に深く皺が寄る。ゆっくりと馬乗りになり丸い頬に両手を添えた。下唇を挟み込むようにして吸いつき愛でた。薄く開いた歯の隙間から舌を突き入れ内を探った。互いの舌先を擦り合わせれば甘い興奮が頭から下腹部へとひた走る。口の中はお酒の味でいっぱいだった。それだけではない。きついアルコール臭が彼の肌から、髪から、いたる所から沸き上がりぼくをもっと酔わせようとしているようだった。

 空調の切れた密室に舌の合わさる音だけが聞こえる。

 我慢が利かず、さっそくシャツの上から胸板をまさぐった。膨らみも何もあったもんじゃない、まったいらな胸。下から上へ確かめるように指を滑らせると、彼がうっすらと瞼を持ち上げた。とろんと眠そうな目でぼくを見るとまたゆっくりと瞳を閉じた。肩に、彼の両腕がかけられた。ずしりと加わる重みに心地よさを感じながら唇を離しシャツのボタンに手をかけた。片手で髪を撫でながら、片手でボタンを一つまた一つと外していく。全部外すとズボンからシャツの端を引き抜いて左右に思い切り押し広げた。下に着ていたタンクトップの端から手を潜り込ませ素肌の彼を味わった。思い出したように唇を合わせれば腹の下の体がひくりと跳ねる。彼は目をきゅっと瞑ったままだ。首筋に顔を埋め吸いつつズボンの前辺りに指を這わす。片手が降りてきて止めさせようとさ迷うがぼくはそれを跳ね退けてベルトのバックルに手をかけた。留め金を外し前を寛げ、掌を差し入れ、覗く下着の上からなぞった。耳元で呻くような声。切なげな吐息。腕が首に回りきつく抱かれた。こっちも息を荒くして、いいよね、いいよね? と聞けば彼は何も言わずにぼくの後頭部を撫でた。承諾の意味と捉えたぼくはすぐ身を起こし自分のズボンに手をかけた。せわしなく前を開け改めて覆い被さろうと彼の頭の左右に手を突く。と、唐突に彼が声を上げた。ぼくの名前を呼んだ。良く通った、堅い声音で。目を鋭く細めぼくを見上げる、服を胸元までたくしあげられズボンは尻の半ばまでずり下げられた彼。露わになった肌に見蕩れぼんやりとしていると彼が何かきつい口調で言った。え、今なんて言った? と返すともう一度彼は同じ口調で繰り返す。

「コンドーム、持ってるんですか? 」
「え、は……え? 」
 耳に上ったとんでもない単語のために一瞬頭が混乱する。舌打ちと共に顔を歪める彼。
「だから、コ・ン・ド・オ・ム! まさか持ってないなんて言わないでしょうねぇ? 」
 薄桃色のかわいい唇を動かして男性用避妊具の名称を連呼する。またずいぶんと悪酔いしたもんだ。いや、こんな状態の彼に仕掛けていった自分が悪いのか。ごめんね。
 なんにせよコンドームなんて(普段使わないから)持っていないぼくはとりあえず困った顔をして彼にお伺いを立てるしかない。それに対して彼はふんと鼻で笑い顎でくいくい玄関先を指し示す。は、ははと乾いた笑いを零しながらぼくは財布の中身と、ここから一番近いコンビニまで往復でどれくらいかかるかを計算していた。




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