風を切って午後八時の住宅街を全力疾走している。むっとした熱気の中、自転車のペダルを鬼のように踏み込み人影のない通りを行く。大きな植え込みの気を曲がればすぐ右手にアパートが見えてきた。滑り込むように自転車置き場に入りいつもの位置に愛車を止めるとすぐさま部屋に向かって駆け出す。すっかり暗くなっていたので植木鉢らしきものを蹴飛ばしてしまった。暗闇で猫がにゃあと鳴く。慌てて元に戻してまた走る。
小さな二階建てアパート一階の、端から二番目の部屋がぼくの家だ。走り込み財布にくっついた鍵をドアノブに当てがちゃがちゃとやる。ああ、くそ開かないじゃないかこんな時に。ちっと一つ舌打ちしてからはっとして辺りを見回した。人影はない。道の向こうでは切れかけの街灯がちかちかと瞬いている。胸をなで下ろしまた鍵を押し付ける。こんなことぐらいでイラついてるなんて人に見られたらかっこわるいもんなあ。でもこんなにイラついてるのは元はと言えばあいつの所為なんだ。ぼくは悪くないんだぞ。
するりと鍵が吸い込まれ戸の開く音。ノブをひっつかみ部屋に転がり込む。手探りで電灯のスイッチを入れれば、見るも無惨な状態だった。
「なんだこれ! 」
朝出てきた時と全く同じ景色のはずなんだけど、改めて見るとひどいもんだ。狭い廊下には脱ぎっぱなしのTシャツやら臭いそうなタオルやらが散乱しているし、奥に見えるリビングのテーブルの上には昨晩食べたコンビニ弁当の残骸がそのままになっている。あれぇ、おかしいな。こんなに無精をしたつもりはないんだけどな。小さく心の中で言い訳しつつ足を一歩踏み出すと見事に蹴躓きべたんとフローリングに顔面追突してしまった。何かと思って顧みれば足下には束になりうず高くなった新聞紙が。とりあえず端の方によけておいて、これでよし。靴をぽいぽいと脱ぎ捨てて上がり、道々洗濯物を拾いつつ暗いリビングへ。
メッセンジャーバックをどさりとソファの上に落とし明かりをつけてからガラステーブルの上を適当に片づけ始める。少しは綺麗にしとかなきゃ。そのためにバイト終わりと同時に大急ぎで帰ってきたんだからな。諸々のゴミをビニール袋にまとめて屑籠にぶっこんだ。ついでにテレビのスイッチをオン。一挙に華やいだ画面には美味しそうな料理がいっぱい。四川料理かなぁ。耳をくすぐるナレーターの女の人の声。一人暮らしの静かな部屋には調度いいBGMだ。中腰になってじっと見いる。と、背中の方から『メールだよ! 』の声。あっ、と息を飲んで慌てて鞄をひっつかみケータイを取り出すとあいつからメール着信ありの表示。ちかちか光るあいつの名前に自然と胸が高鳴る。ソファに沈み込み、は、と一つ息を吐いてから画面を開く。そこにはただ二言、こう書かれていた。
『今駅。あと二十分ほどで着く予定。』
ずっこけそうになりつつもなんだかかわいくて笑ってしまった。元が付くとはいえ先輩のぼくにこんな失礼できるのなんて君くらいだぞ。でも、そこがいいんだけどね。姿の見えない後輩に画面越しの猫可愛がり。なんか末尾に変な絵文字が入ってるけど(なんでナス? 麻婆茄子でも食べたいのかな)まあ、それもご愛敬だ。
なんて返事しようかな、と指をさまよわせ液晶とにらめっこする。わかったってまず書いて…それから何か食べたい物あるか聞いて…あと暗いから気を付けて来なって言おう。これで好感度アップ間違いなし! へへへ…。にやけ顔でびしばしキーを叩いている所に突然流れる陽気なメロディ。同時に浮き出るあいつの名前。着信中の表示。ぽろっと取り落としそうになった電話を慌てて拾い通話ボタンを押す。光の早さで耳に押し当て恐る恐る。
「は、はい…もしもし」
『今、駅前のスーパーを出た所です。あと十五分もあれば行けます。っていうか返事書くの遅っ! 何分待たせるんですか、この非常時に! いや、そもそもこういう場合迎えに来るくらいするでしょ、ふつう……。もう! そんなんだからあんた、ボケナスのオタンコナスって言われるんですよ! このボケナス、オタンコナス! 』
大層ご立腹な様子のきんきん声に自然とソファの上で正座になっていた。ぼくってそんなにメール返すの遅いかな?
「ごめん、というかぼくそんな罵詈雑言を君以外の人から浴びせられたこと一切ないんだけど……。はっ、まさかさっきの絵文字のナスってそういう……」
『やっと気付いたんですかぁ? あんた、ほんっと頭軽いんですね。嫌味も満足にわからないなんて』
プッと空気の漏れる音が通話口の向こうで聞こえた。
「笑うなよう、失敬しちゃうなあ」
『だって面白いんですもん』
今度はくすくす笑うかわいい声。胸の裏っ側が優しく撫でられたみたいに疼く。
「……そう、そっか」
『なんです? 』
「君が面白がってくれてるんなら…ま、いっかって思って」
『なにかっこつけてんですか。恥ずかしいですね』
「あはは、ごめん」
『……あんたって謝ってばっかりだ』
「へ、そう? 」
『ああ…別にそれはどうでもいいんですけど。とにかくもうすぐ着くんで、ちゃんと準備しておいてくださいね。薄汚い部屋に入れなんて言われたら即帰りますから』
靴下汚れるのやだし、ゴキブリキモいし、と容赦なく畳みかけてくるのを聞き流しながら正座を崩し背もたれにゆったり身を預ける。と、その前にテレビのスイッチをオフに。改めてくつろぐ姿勢になる。
「ぼくんちそんなに汚くないよ。いうなれば高級ホテルのスイート・ルーム並にはきれいだよ」
『……高級ホテルのスイートに泊まったことあるんですか』
「ないけど? 」
『……まぁ、いいです。理想に近づけられるようせいぜい努力しなさい』
「う〜ん…そうしたいのはやまやまなんだけど……」
『はい? 』
「君とずっと話してたらできるもんもできないよ。ねぇ、なんでいきなりぼくに電話してきたの? メールでもいいのに。なんか緊急の用でもあるの? 」
『そ、それは…』
「あ、もしかしてぼくの声が早く聞きたかったとか? そうか寂しかったんだ。ねぇ、そうだろ? 」
プツ、と断ち切られる気配に次いでツーツーと空しい機械音。あれ、なんか変なこと言ったかな。首を捻り電話をぽいとソファに放った。よっこいしょと立ち上がり部屋を見回す。ゴミは全部片づけたし汚い所なんてないよな。うんと頷いて台所へ。小さな冷蔵庫の中身を屈み込んで確認する。見事に何もない。ちょっとの調味料といつ封を開けたかもわからないキムチが一パックあるけどそれらを食材の勘定にいれるのもどうかと思う。でもまあいい。酒類はあいつが買ってくるって言ってたし、全部任せとけばいいんだ。お腹が空いたら出前を取ればいいし。あーあ、全部人任せというのは気分がいいもんだ。
ふらっと部屋に戻り考える。あいつが来るまであと少し、他にやることはないし後は……。がばりと着ていたTシャツを脱いだ。案の定白いシャツの後ろ側は向こうが透けて見えるほど汗にまみれていた。部屋に吊しっぱなしになっていた別のTシャツを手に取り袖を通す。ちょっと気に入ってる、黒い生地に龍のバックプリントがあるかっこいいシャツだ。サイズが小さいのを無理して買ったから若干ピチピチだ。でもかっこいいからいいんだ。ジーンズにも合ってると思うし。あいつは一度もかっこいいなんて言ってくれたことないけど……。
洗濯物を籠にぶちこみがてら洗面所に行く。顔を洗って髪を綺麗に整えて、ついでに歯を磨いた。何があるかわからないし念のため念のため。
早く来ないかなー。早く早く。一緒にやりたいゲームも一緒に見たいDVDもたくさんあるんだ。早く会いたいなあ。
きっかり十五分後、玄関の方からチャイムの音。……が一回二回三回。親の敵とばかりに連打されるピンポンに少々ビビりながら返事を返す。はいはい、と小走りで行き戸を開けてやると目の前にはむすっとむくれたかわいい顔。付き合いはじめて一年の、ぼくの大事な大事な元後輩。
「こんばんは、お邪魔します」
口を小さく動かしてそれだけ言うと手に提げていたエコバックを押しつけてきた。慌てて受け取ると靴を脱ぎ捨てさっさと上がり込みづかづかリビングの方に歩いていく。開けっ放しの玄関をそっと閉め彼の後に続く。
「思ったより広いんですね」
重そうなリュックサックをソファ横の床に置いた彼は物珍しそうに部屋を見回した。そりゃセキュリティばっちりの超高級マンションに住んでる君にはいいとこ犬小屋くらいにしか見えないかもしれないけどさ。部屋の隅のマガジンラックにこんもりと積もった埃を遠巻きに眺めて嫌な顔をしている。彼にとってはゴキブリの次くらいに許せないものなのかもしれない。でもこんな庶民の部屋にわざわざ来たいと言ったのはこいつだ。
イチャイチャするなら広い部屋の方がいいに決まってるからぼくたち、いつも会うのは彼のマンションの方だった。都心に堂々とそびえ立つ、たぶんおしゃれなデザイナーズマンション。当然月の家賃は目ん玉が飛び出そうなほど高い。詳しくは知らないけど、まだ大学生のくせに株か何かをやって大儲けしているらしい。雑誌にも何度か取り上げられたなんて自慢してたけど、一介のフリーターであるぼくには所詮遠い世界の話だ。
ま、とにかく彼の部屋はでかいお風呂もあって適度にくつろげるからお家デートには最適で、お呼ばれされればぼくはいつでも喜んで飛んでいった。部屋でだべって、お酒を飲んで、いい具合に酔っぱらってついでにやらしいことなんかをして後はぐだぐだ過ごす。いつもと同じ密会のスケジュール。でも一週間前のこと、後は朝が来てはいさようならという所で彼はいつになく切実に「今度はあんたの部屋に行きたい」とお願いしてきたのだ。うるうる潤んだ上目遣いにあれ、これ誰だっけ? と思いつつ胸に縋りついてくる彼の裸の肩を抱いてあげた。まだ酔ってるのかなと思い顔を覗き込んでみるが濡れた髪が頬に幾筋か張り付いているだけで特に真っ赤ということもなかった。安心すると同時にまたうとうと眠くなりはじめた。彼が囁く。来週あなたの家に行きます。いいですか? よく覚えていないけどそんなことを言っていたんだと後になって思う。夢見心地で答える。うん、いいよ。来なよ。それでまたいっぱい楽しいことしよう。閉じかけの意識の向こうで彼が笑ったような気がした。約束ですよ。約束……。
そうして今ぼくのみすぼらしい部屋に彼がいるわけだ。なんとなく場違いにも見える彼が。
糊の利いた真っ白なシャツに上品な濃茶のパンツ。くせなのか、シャツの端を細身のパンツにきっちり入れ込んでいる。そのおかげで腰からお尻、細長い足までのラインがくっきりと見えてぼくは嬉しい。顔はたぶんイケメンの部類に入るんだと思う。ちょっと子供っぽいけど目鼻立ちがはっきりしていてかっこいい。
こんなこと言うとなんだか真面目で頭の良さそうな美形って感じだけど、本当は違うんだ。めちゃくちゃ嫌味で人の神経逆なでするのが大得意なふざけた奴なんだ。みんなこいつの顔を見ると顔をひきつらせて逃げ出すくらいだ。でも、本当はすごくかわいい奴。強がって嫌なことを言ってみたりするけどぼくが体に触ったりちゅーしたりすると恥ずかしがってしどろもどろになっちゃう。今は少し慣れたみたいだけどやっぱり真っ赤になってくれるからぼくはすごく嬉しい。ぼくだけが知ってる君。気まぐれなかわいい子。あっ、やっぱりかわいいなあ。怒った顔も。でもなんで怒ってるのかな?
「何にやにやしてるんですか? 犯罪的に気色悪いですよ」
いつの間に、鼻先には彼の顔。ぼくは誤魔化し笑いをするしかなかった。やっぱり君には敵わないな。