淫夢を見た。
 主であり兄である男と寝台の上で舌を貪り合いながらまぐわう夢だった。若い、未成熟な身体に杭を打ち込み揺さ振り犯しまくった。突き抜けるような快感と、同時に味わう罪悪の味。甘く苦く夢にしては嫌にリアルで関羽は胸をむかむかさせながら目を覚ました。
 明るく陽の射した天井が見える。窓の外からは鳥のさえずり。いつもと変わらぬ朝の気配。
 四肢のだるさと胸焼けに奥歯を噛み締めつつ頭をがしがしと掻いた。欠伸を一つする。ついでに顎髭も撫でて整える。さてそろそろ起きようかとなんの気なしに首を横に捻った。目が合った。全身が一センチ程浮き上がったような気がした。うっとりと眠たそうにとろけた瞳を掛け布団の際から覗かせまさしく主であり兄である男がこちらを見つめていた。
 げ、とつい正直な声がまろび出てしまい慌てて口を閉じた。なんでこいつが隣で寝てるんだ。何かのドッキリか。いや、いや確か昨晩は。自分はこいつとアレしてコレして……。思い出すにつれいかつい髭面がみるみる青ざめていく。そう言えば何故か全裸だし、下半身の大事な部分の表面がパリパリと乾いてむず痒いし。冷や汗を流しながらぱちぱちと瞬く黒い目を間近で眺めた。突然すっと、目が細められびくりとする。僅か身を乗り出し関羽のひきつった頬に片手を添える。次に感じたのは柔らかな感触。唇の、少し外れた際の部分に軽く接吻。頬髭の上をなぞるように唇が行き来する。目を閉じ、この上なく幸せそうな顔。裸の肩に手をかけ撫でると嬉しそうに吐息を漏らす。
ああ、そんなに幸せなのか。自分といるのがそんなに嬉しいのか。顔がそれとはわからない程度に緩む。自惚れにも似た満足が身を暖かく満たす。
 軽く音を立て離れると劉備は絹に頭を預けたままなおも微睡んだ瞳で見つめてくる。もにょもにょと唇を動かし何か言おうとしている。なんだ、と耳を傾け聞くと劉備は嬉しげに頬を緩ませて言い放った。

「おはよーエミリー……今日も一日、天下統一目指して…がん、ばる…ぐぅ……」
 むにゅむにゃと訳のわからない言葉尻を残しすやすやとまた夢の中。
 関羽はそっと布団から這い出し床に放りっぱなしになっていた寝間着を取り上げ着込んだ。さっと髪を掻き上げ形良く撫でつける。それからぐるりと寝台を回り劉備の寝ている側に付くとその涎まみれの間抜けな寝顔を見下ろしてやった。至って冷静に眺め回してから息を一吸い。後、一喝。
「おら、いつまでアホ面晒して寝とんじゃ、こらぁ! 人の布団で悠々と、厚かましいにも程があるわ! 」
 びゃっと布団をひっぺがすと裸の全身を震わせて劉備がくしゅんくしゅんとくしゃみをした。構わず腕を掴み上げ無理矢理起き上がらせる。ぼんやり顔のままべったりと尻をついて座る劉備。目をごしごしこすってから凄まじい顔をしている男を仰ぎ見た。
「えっ…あれ、なんでエミリーに…髭が……」
「何寝ぼけてんだ、私は関羽ですよ。あんたの部下の。人形なんかじゃありません」
「うーん…そうなんだ……そう……」
 すでに半開きな目で頭もぐらぐら揺らし始めた主の頬を慌ててパンパンと往復ビンタする。
「駄目ですよ、また寝ちゃあ! もうだいぶ日も高くなってますから、お部屋に貴方の姿がないと気づかれてしまいます! 」
「ふぉぶっ! いたいいたいちょっとやめっ…鼻血でちゃうから…ぎゃぬ! 」
 顎を掴みぐいと引き寄せ関羽が唸る。
「部屋に君主の姿が見えないと侍従どもに知れたら厄介なことになります。屋敷中大騒ぎだ。あんたも嫌でしょう、自分が昨晩男と、その、同衾していたと知られるのは」
 うーんとこちらも唸ってから答える。
「ぼくは別に嫌じゃないけど……君は嫌なの? 」
 ひりひりする頬に涙を浮かべつつそんな純粋な台詞を言うものだから、その健気さに胸が詰まり関羽は何も言えなくなった。
 突き放すように顎を解放しすたすたと箪笥まで歩く。段の一番上を引き出し中をごそごそ。目をぱちくりしていた劉備はよいしょと寝台から降り関羽の背後までふらふら歩いてくる。
「何してんの? 」
 脇から覗きこんでくる全裸の君主にぎょっと身を跳ねさせて関羽が返す。
「いえ…その格好じゃお部屋にも帰るに帰れないでしょうし、ほら着てきた服は汚れてしまったわけですから……代わりのお召物を、と」
 床に小山を作っている主の豪奢な着物をちらと見る。あの衣のどこかしらに自分の欲望の証が付着していると思うと居たたまれなさに顔が赤くなった。
 引き出しの中をひっくり返し主の身に合いそうな衣を懸命に探す。が、どれもこれも大きすぎて役に立たない。ふうふう言いながらようやっと多少小さめの着物一揃いを捜し当て引っ張り出した。別の箪笥を勝手に開け中から取り出した秘蔵の海パン(ビビットなピンクカラー)に目を丸くして「何これ! 何これ! 勝負パンツ? 」と連呼している劉備を拳一発で黙らせいそいそと着物を着付けていく。
 肌着で裸の体を隠し上着を羽織らせる。劉備はぼんやり顔でされるがままだ。両腕を軽く上げさせた所で帯を丁寧に巻きつけ仕上げにきつく締めた。靴を足下に置いてやり履くよう促す。靴を履き自分で帯を軽く直しながらありがとうと呟く。その姿はいつものと変わらぬ君主の姿だった。不意に訪れた寂寥の感に関羽は驚き目を泳がせた。さっと主から目を逸らし主が昨夜脱ぎ捨てた衣を拾い集めた。丸めて劉備にぐいと押しつけぶっきらぼうに言う。
「……侍従たちに申しつけて早く洗濯させるように。それと貴方自身も相当小汚いですから、風呂に入れ。ついでに部屋に戻るまでの間はなるべく人に見られないようにすること。わかりましたか」
 ぼけっとした顔で部下を眺めて一言。
「そ、そんないっぺんに言われても、覚えられない……」
 がくっと力が抜けつつも主を扉まで追い立てて行く。背中を押して戸の外に追い出した。覚束無い足取りで劉備が振り返る。何か言いたげに開かれた口。これ以上何か言われれば尚更離れ難くなる予感がし関羽は急いで戸を閉めてしまった。掛金をかけ再び入ってこられないようにすると寝台まで取って返しぐったりと座り込んだ。

 何をやっているんだ、くそ。
 若気の至りでかつて関係を持ってしまったとは言え、自分も今はもういい年だ。分別を弁えなくては。君主は家臣の、民の、皆の物であって独り占めできる物ではないのだ。
 後ろめたかった。ここまで欲し、体を貪り尽くす一方で、彼の人に命を捧げる覚悟すらできていない自分が後ろめたかった。
 もう、やめよう。こんなことは金輪際、二度とやめにしよう。それが彼のためにも自分のためにもなるのだ。やめよう、忘れてしまおう。こんな遣る瀬の無い思いなど全てドブに捨ててしまおう。




 門戸手前の庭先に佇んでぼんやり遠くを見つめていた。澄み渡った空の向こうの向こうを眺めているとあの青の下はどんな所なのだろうか、という思いが沸き年甲斐もなくうずうずとした。まあ、簡単に言えば仕事をボイコットして遊びに行きたかったのだ。兄とも、他の誰とも顔を合わせるのが気まずくてしばらくはどこかへ雲隠れしてしまいたかった。色々準備してこっそり門の外に出てしまおうか。しかし見つかったら厄介だな。関羽は門から遠巻きにうろうろしつつ考え込む。

「関羽殿、どうなされたんですか? 」
 前触れ無く背後で声が上がり関羽は飛び上がった。
「繋がれた犬みたいにくるくる回って、面白いですね」
 ねちねちと嫌みったらしい声色。見ずともわかる。
「あぁ…これは軍師殿。何かご用で? 」
 振り返れば思った通りのにやけ面。衣を翻し悠々と一歩近づくと関羽の仏頂面を不躾に眺め回す。
「昨日のことなんですけどね」
 ぎくりとするのを隠しなんとか平静を装う。
「は、なんでしょう」
「劉備殿が珍しく意気消沈とした様子で、どうもおかしかったんです」
 はあ、と相槌を打つ。
「それなのに何故か今朝になって妙にご機嫌になってたんです。なんででしょうね」
 淡泊な物言いでいかにも興味がないという風を装ってはいるがじっと探るように動く眼が明らかに真逆の心情を物語っていた。
 こいつも同類だな。関羽は一人納得し青年の幼げな顔つきを見つめた。彼もまた若かりし頃の自分と同じような想いをあの人に対して抱いているのだろうか。おそらくそうだろう。独占欲旺盛な若者は自分だけが特別相手に気にかけてもらえていると、そして相手を一番想っているのも自分だけであると思い込みたいのだ。自分こそが替えの利かない唯一無二の存在でありたいと請い願う、その愚かさ。同じ轍を踏むだろうか、こいつも。ほんの少しだけ哀れに思った。愚かさを笑った。自らが未だ同じ愚かさに蝕まれているなどと微塵も思わずに憐憫の情を感じていた。
「まあ、そんなことどうでもいいんですけど」
「そう言いなさいますな、孔明殿」
 吐き捨てるように言う軍師にごく軽い調子で返す。
「あの人にも、貴方の知らない部分が多くあるということですよ。もちろん、付き合いの長い私にはわかりますがね。ああ、わかってますよ。ここに来てまだ日もない貴方にも、同じように察しろと言うのが大分酷であることぐらいは」
 そう言い放たれた孔明はぽかんとした顔で立ちすくんだ。頭の中で今し方聞いた自信げな文句を反芻し、ついにはその意味するところを飲み込んだ。全てを悟った青年は幼い顔をみるみる憎しみに歪ませ、歯ぎしりをし、拳を力一杯握りしめた。しばし睨み合う。勝敗はすぐに決した。無表情な髭面に気後れしたのか、孔明は赤くなり始めた目元を隠しさっと翻ると早足にどこかへ逃げ去ってしまった。後に残され関羽は一人空を仰ぎ見る。
 お慕い申し上げております、兄者。いつまでも、いつまでも。
 どこまでが本気かもわからぬ戯れ言を心の虚に木霊させながら、ただひたすら未来を思い描いた。そこに待つのは十中八九に死だった。彼の人の夢に絡め取られた末の死。不思議と悪い気はしなかった。ただ、永遠の別れだけが辛いと、思った。