それじゃ、飲もうか。
杯を軽く掲げにっこりと笑む少年。返事も待たず縁に唇を当て、ぐいと一息に飲み干した。くうー生き返るーなどと親父臭いことを宣う若大将にちょっぴり苦笑を漏らす髭の大男。自分もゆったりとした手つきで杯を空ける。
傍らに備えた燈台の灯が柔らかく二人の影を伸ばしている。今はまだ宵の口。だのに小さな室の外からはまるで人の気配がない。物のごとりと動く音ひとつしない。人払いでもしたかのようだ。耳を澄ませばただただ梢や葉が風に震える声だけがある。
関羽は自慢の髭を撫でながら薄明かりの中、背を丸めちびちびと宴会の残り酒を楽しんでいる劉備を見ていた。立てた片膝を抱えるようにして目を伏せ、ほんの少しずつ口に入れてははたと関羽の方を見、にこにこ頭の悪そうな笑いを零す。応えて関羽もにこと笑ってみるが堅い頬の筋肉はおいそれとは解れずどうしても強ばった変な顔になる。劉備は笑いを返されていることに気付かない。また唇を湿らせぼんやりとする。
関羽は顔の筋肉をうまく操るのを諦め皿のつまみに箸を伸ばした。これも昼間催した宴会の残りだった。魚を干して炙ったのとか、山菜の煮たのとかを適当に口に運び後から酒を流し込む。とろりとした甘味が塩辛くなった口内をきれいに洗ってくれる。うまい。関羽が息を吐くと劉備も倣って箸をつけ始める。小さな口にちょっとずつ入れ、じっくり時間をかけて味わっている。おいしいね。笑う。
それもそのはずだった。今朝方、二人を含む一党の間で催された酒宴は酒にも食事にも贅を尽くした豪勢なものであったからだ。黄色頭巾の賊どもを天に代わって成敗した、その祝いのために設けられた席であった。劉備の右腕である関羽をはじめとして凄まじい豪傑ぞろいの手下たち、後援者である地方領主、商人、どこぞの儒学者、歴史家、兵法家、果てはたまたま通りかかった町人に野良犬などまで座に加えての大宴会だった。
褒め讃えられるのが大好きな劉備は宴の中心でアホ丸出しなまでのはしゃぎっぷりを見せていた。おだてられるとすぐその気になり大袈裟な武勇伝を語り酒を一気飲みし裸踊りをした。影でくすくす笑われていても一向に気付かない様子だった。しかしたとえ気付いたところでこの劉備のご機嫌ぷりに水を差すことにはならなかっただろう。劉備は初めて手に入れた完璧な勝利に酔いきっていた。ぼくが勝ったんだ、ぼくじゃなきゃ勝てなかったんだと大きな声で触れて回る。座の端から端まで行って、また引き返し、またあっちの端まで行ったら回れ右した。そうしてくたくたになるまで自慢話をするとさっさと自室に引っ込みもう他のものには目もくれなかった。
一連の様子を遠くから眺めていた関羽は大将のあまりの子供っぽさに呆れかえると同時に胸の奥の方にずくずくと疼くものを感じていた。
まだ十八にも満たない少年の、無垢で危うげな横顔。手折れば簡単に失われてしまいそうな細長い手足。人を罵ることなど知らぬ薄桃色の小さな唇。関羽には十分すぎるほどの魅力だった。彼に仕える者、関わる者で関羽の他にそのような不埒の目を劉備に向ける者はいなかった。それが関羽には不思議でならなかった。自分は劉備の傍で悶々とした思いを潰し続ける毎日だというのに。
関羽はほんの数尺離れた所で揺れる、とろとろと眠たそうな瞳を見つめている。磨いた石のような煌めき。滲む黒の中に揺らめく火と、真剣な眼差しの男が映る。こっくりこっくり、頭が落ち始める。
「大将殿」
手から滑り落ちそうになった杯を取り上げ劉備の肩を揺さぶった。小さく、骨ばった肩だった。
「お休みになるのでしたら、どうぞ寝台へ」
低く暖かな声にとろりと幸せそうな笑みを零す劉備。身体にさりげなく触れてくる男の手を押し戻し「大丈夫」と返す。脇に避けられていた杯を持ち直しまたなみなみと酒を注いだ。うっとりとした目で水面を眺めたのも一瞬、もう一杯空けてしまった。
「君に会えて良かった」
呆れ顔の部下に甘い声で言う。
「君がいなかったらきっと、勝てなかった。自分が一番強い、一番すごいなんて虚勢を張ってみるけど、やっぱりぼくだけじゃどうしようもできないことってあるから」
関羽は一礼し「お褒めの言葉に与り、光栄です」と言った。劉備は「なんだか他人行儀だね」と笑った。
「ぼく、いちばん頼りになる仲間は絶対君だと思ってるよ。だから君のこともっとよく知りたい。仲良くしたい」
だからこうしてわざわざ二人きりの酒盛りを開いたりなどしたのか。関羽はようやく合点がいき心中で微笑んだ。
少し困ったように眉を下げ、縋る目つきで見上げてくる主君。強い酒を朝から浴びるほど飲んだために白かった肌はひどく血色が良くなっている。触れたら熱いだろうか、と考えいや主君の肌に指を這わせるなど夢のまた夢とすぐに打ち消す。
「お戯れが過ぎます」
目を逸らしわざとらしく咳払いする。
「大将と一介の兵士がそこまで親しくすることもないでしょう。必要以上の馴れ合い、なあなあの態度は軍全体の志気にも関わる悪しきものです。そのようなことは誰にも許してはなりません」
兵法書でもそらんじているような味も素っ気もない言い方に劉備はしゅんと俯いてしまった。
「ぼくのこと嫌いなんだね」
「そう思いますか」
強い口調で返され劉備は目を丸くした。真っ直ぐ向いた切れ長の目を見詰め返し、僅かに笑む。
「ううん、やっぱり思わない。ごめん、今のは忘れてよ」
盆の上からとっくりを取り杯に注いでは胃に流し込む。左手にとっくりを持ったまま次から次へと注ぎ足していく。白い喉を上下させまた一献やる。飲みきれなかったものが緩んだ口の端からしたたり落ちる。顎を伝い首筋を濡らす。はあぁ、と深く息を吐き体内を焦がす劇物に感じ入る。目は虚ろ、水を落としたように濡れている。
「もうそれくらいに」
「あと一杯だけ」
覚束無い手つきで注いだものだから杯から酒が溢れ飛び散る。衣の膝に黒い染みを作るのもお構いなしに劉備は飲む。関羽ははらはらそれを見守る。
ごとり、前触れ無く響く堅い音。毛足の長い敷物の上に杯が転がる。同時に劉備の肩がゆらりと大きく揺れる。関羽は主の身体が床に打ちつけられる前にさっと手を伸ばし支えた。腕の中で小さな寝息を立てる主。衣の上からでもわかる。肌は指の神経を焼き付くしそうなほど、熱い。
そっと抱き上げ奥に設えられた寝所へ運ぶ。壁際に付けられた広い寝台。垂れかかる覆いを手で避け、絹の布団の上に身を横たえさせた。紫のふんわりとした絹の真ん中に小さな身体が沈み込む。四肢を投げ出した劉備。緩く胸を上下させている。
関羽は息苦しくないようにと堅い帯を解き、厚い上衣を脱がせ、主をすっかり肌着だけにしてしまう。薄い衣から手足の先が覗く。締まった足首、頼りなげな腕。ぐびりと喉が鳴った。
かぶりを振り背を向けた関羽に劉備は薄く目を開け声をかけた。主が何かぶつぶつ言っているのに気付いた関羽はすぐに振り返る。劉備は不安げな瞳で辺りをきょろきょろ見回している。頷きまた背を向けると部屋の隅の棚から主の所望する物を持ってくる。大切に運び主に隣に一緒に寝かせる。劉備は腕に抱きしめその人工の金髪に接吻をした。人の形をしたそれは表情を変えることなくただされるがままに任せている。
上から薄い掛け布を被せてやる。ありがとう。今にも張り付きそうな目で部下を見上げ言う。お休みなさいませ、と一言だけ零し関羽はさっさと踵を返す。背後で漏れた笑うような吐息に胸がじくじくといたぶられる。
関羽は一人寂しく酒盛りの続きをする。飲んでも飲んでも一度抱いた劣情は消えることなくその胸の奥底でぐらぐらと煮える。喉を通るものがほとんど水のように感じられる。
酒を呷りちらと奥の間を見る。闇に沈む寝間の中に、ぼんやり寝台の輪郭が浮かぶ。その中で劉備は今、人形を抱いて静かな寝息を立てているのだ。幼子のように、無防備に。守らねばならん、と身を引き締めた。ならばその守る者がいかがわしい考えを持つなど言語道断。心頭滅却すれば火もまた涼し。煩悩を廃し肉欲を凍らせるべし。
関羽は努めて別のことを考えてみる。思えばあの、劉備が常に持ち歩いている少女の人形は一体なんなのだろう。記憶を辿り初めてソレを見せられた時のことを思い出す。あれは確か劉備と出会った日の夜、部屋が足りないからと同じ寝間に招き入れられた時のこと。旅の荷物の中から引っ張り出された、長い金の髪に青い瞳、ふわりと優雅に広がる不思議な衣を纏った少女人形。ふっくらとした真白な頬の頂に薄く紅が乗っている。幼げな目元を愛おしさを込めて覗き込み劉備が笑う。
「昔、母さまに買っていただいた、ぼくの大事な大事な友達なんだ」
そうだよね、エミリー。幸せそうに頬を寄せる劉備。対して眉を曲げ奇異なものを見る目つきをする関羽。よもや劉備の母君は我が息子を娘子だと思っていたわけではあるまいな、と怪しむ。男子は本来人形遊びなど好まない。表でちゃんばらごっこをしたり木登りをしたり、取っ組み合いの喧嘩をしたりするのが普通だ。
劉備は苦笑して「ぼくはあんまりそういうことは好きじゃなかったなあ」と零した。近所の女の子たちと一緒に、家の中でおままごとをしている方が楽しかった、と。
「それも本当に小さい頃の内だけだったけどね」
「それから後は? 」
「先生に付いて学問を習った。剣術もがんばって自分で身に付けた。あとはもう兵士になって一旗揚げる方法ばっかり考えてた」
思えばそのころからもう夢は決まっていたのだ、と昔を懐かしむような目つきで言う。天下を統一し彼の系譜である漢王室を復活させること。それが劉備の、一生を賭してでも成し遂げたい夢だった。
お人形遊びをしていたような子供が何をいきなりそんな大それたことを、と関羽が茶化してみると劉備は「えぇ、ダメかなあ」と恥ずかしげに口籠もった。はにかんで笑う、幼い面。
ああ母君よ、貴女の息子は貴女の思惑通り丸く、柔らかく、甘ったるい香を纏った人間に育ちました。丁度あの少女の人形のように。それが武人として戦乱の世を歩むことを選んだ彼にとって著しい障害となっているのは否めない。が、逆にそれが彼の持ち味、魅力となって人を引き付けているという面も否定できない。そう考えを巡らせてる関羽もまた劉備の不思議な佇まいに引き寄せられた一人だった。
あまりにも弱々しく、それが故に幾度も戦で手酷い仕打ちを受けてきた劉備。しかし諦めない。決して諦めることをせずただ無心に困難の中に身を投げ込む気概。荒ぶる野心の男だと思った。しかしその印象と相反するもう一つの顔。他者への憐憫の情。どんな極悪な敵であろうと必ず同情を寄せることは忘れない。柔らかな心。
関羽は杯をそろりと盆に戻した。主の眠っているはずの、その暗闇を見つめ胸をざわつかせる。
その心に触れたい。丸く、柔らかく、きっと甘い味がするに違いないその心を引きずり出し掌の上に乗せて眺めてみたい。一口食らえばこの身の乾きも飢えも寂しさも何もかも、立ち所に癒してくれるに違いないのだ。そんな貴方の心が欲しい。食いたい。食いたい!
遂に辛抱しかねた関羽はゆらりと身を起こし主君の寝所へと進入した。眠る主のあどけない頬に斜めに月明かりが落ちている。傍らに呆然と仁王立ちし、眺める。することは決まっている。ただ手が動かないのだ。
関羽はこれからしようとしていることと、心の内で欲しているものとのあまりの整合性の取れなさに逡巡している。真逆だ。これは真逆のことだ。しかしそれも仕様のないこと。心だけを手にし愛でる術などあるはずもなく。ただそこにあるのは物理的な結合の手段と、腹に渦巻く荒々しい肉の欲。
湧き出る生唾を飲みぎこちなく右手を伸ばす。最初に触れた頬の、その熱さと柔らかさ。引くことなどできるはずはなかった。