愛し、憎し君



「好きな人がいるんだ」
 顔を赤らめ節目がちにそう言った主君に軍師は椅子から転げ落ちそうなほど驚いた。
 目を見開き斜め向かいに座った主をじろじろと眺め回す。卓に肘を突きそっぱを向いている主は珍しく物思いに沈んだ様子だった。頭の天辺から表情、細かい所作、髪をしきりに撫で付ける指先までをよくよく観察し孔明は深く嘆息した。目を机上の書に移し読み進める作業に戻る。
 朝も早くからふらりと人の部屋に遣って来て、何を言い出すのかと思えば。
「恋愛相談なら余所へ行ってください」
「えっ、なんでさ」
 身を乗り出した劉備が非難がましい声を上げる。孔明は目も向けずに言い放つ。
「私は軍師ですよ、一応」
「知ってるよそんなこと。だから聞いてるんじゃないか」
「……戦で人を大量に殺す算段をつけることと女性を誑かすために策略を巡らせることを一緒にされては困ります」
「う〜ん、それは……」
「そもそも、私が恋愛のエキスパートだとかイケイケのプレイボーイだとかに見えますか? 見えないでしょう」
「うん、それもそうだ」
「全く考えただけでも虫ずが走る」
 鼻で笑い飛ばす孔明に劉備が掻き口説くように言う。
「でもそこをなんとか助言をお願いできないかな。ぼく一人じゃさっぱりわからなくて、にっちもさっちもいかないんだよ。というか表現が古…イケイケって……」
 眉を八の字にして申し訳なさそうに頼む劉備を横目で睨みつつ孔明はその真意を探ろうとしていた。何故いきなり自分にごく個人的な相談ごとを持ちかけてきたのだろう。もしかして、知らない内に彼の中で自分は十分信頼に足る人間だと認識されていたのだろうか。気の置けない友人同士のような。いや、それ以上に誰よりも近しい存在。そうだったら、いいのに。
 書を脇へ押し退け劉備と向かい合う格好に椅子をずらした。足を組み腕を組み、にやりと持ち上げた唇を微かに動かして言う。
「いいですよ、聞きましょう。劉備殿の恋愛相談」
「ほ、ほんと!? いいの!? 」
 勢いよく立ち上がり迫ってくるのを手で制して落ち着くよう促す。うん、と素直に応じ椅子に座り直した劉備に一層笑みを深くさせ問う。
「で、劉備殿の恋のお相手とはどんな人なんですか? あっ、人でなかった場合はすみません」
「いや、謝らなくていいよ…至って普通に人類だから……」
「ああ、この前言ってたナントカ星人とか言う……」
「その『人』じゃないよ! 普通の! 一般的な地球人の人だよ! 」
「なんだつまらない」
「つまらなくていいって、そこまで奇を衒う必要はないから……」
 くすくす笑う孔明にむっとした顔をしながら劉備は言葉を継いだ。
「ま、いいや。とにかくぼくの話を聞いてよ。……さっきも言ったけどぼく、好きな人がいるんだ」
 うんうんと頷き先を促す。
「結構長い付き合いの人なんだけどさ、あっ、いや別に本当にお付き合いしてるわけじゃないんだけど。まあ、そんなに浅くもない仲なんだ。その人が、なんというか…最近よそよそしくなったような気がして……。もしかして嫌われちゃったかなーって思って。もうどうしていいかわからなくって」
 徐々に俯いていくので自然くぐもる声。注意深く言葉の端まで拾い上げて聞いていた孔明は真面目に考え込んでいるような顔をした。もちろん本当は笑いを堪えるのに必死だったのだが。
 まさかこの究極的に色事に疎そうな男に恋する相手がいたとは。しかも長いこと一途に想い続ける甲斐性まであったとは。意外なことだ、と思う。思いながらやはりそのギャップに笑いがこみ上げてきて仕方がない。さてなんと言ってからかってやろうか、と考えながらいや待てよ、と思う。どうせなら少し助言をしてやって後々どうなるか見てみるのも面白いかもしれないな。どうせ何を言ったって、言わなくたって失敗は目に見えているのだからこっちも気が楽というものだ。しかし彼の想い人とは一体どんな女だろうか。后候補の誰かだろうか。それとも町娘か何かだろうか。

「それは大変ですね、劉備殿」
「そうなんだ! すごく大変なんだ。ぼくこういうことぐちゃぐちゃ考えるのが苦手で……でも頭のいい君ならぼくよりは色々知ってると思って」
「もちろん、少なくとも劉備殿よりはそういうことに詳しいつもりです。ま、女性と交渉を持ったことなんてないですけど」
「心強いなあ。って、あれ君もしかして童て」
「うるさい黙れ。これから私がためになる恋愛マル秘アドバイスをしてあげますから心して聞くように」
「は、はい……」
 おほんと勿体付けた咳払いをする孔明にごくりと劉備が唾を飲む。神妙な面もちで息を吸い込みまず一言。
「布団に押し倒してそのままがっつり頂いてしまえばいいのです」
 発声と同時に劉備がぶっと盛大に吹き出す音。勢い余って膝の上に揃えていた手を卓の縁にぶつけ涙目になる。
「はあっ!? ちょ…ちょっと、え? それってつまりセッ、セッ……」
「そうです。セックスしてしまえば万事解決。女性だって煮えきらない腑抜け男よりもちょっと乱暴でも押しの強い男の方が好きに違いありません」
 鼻をほじりながらケッとばかりに吐き捨てる姿にああ、だから童貞なんだな、と思いつつ劉備も反論を試みる。
「で、でもいきなりそんなことしたら失礼だよ。無理矢理なんてそんな、犯罪じゃないか……」
 にやあと孔明が嫌な笑いを浮かべる。
「もしかしてテクニックに自信がないからそんなこと言ってるんじゃないですかぁ? 」
 断定的な口調に劉備は息を詰め顔を赤くさせた。下を向きもじもじと指先を弄びながらぽつりと零す。
「……うん、君の言う通り。ぼくあんまり、そういうこと得意じゃないから……」
「童貞なんですか? 」
「ちがっ…別にいいだろそんなことは! お、お前こそ童貞のクセに偉そうにアドバイスとかすんなよ、どうせなんにも知らないクセに! 」
「はあ? 人が折角親身になって相談に乗ってやってるっていうのになんですかその言い草は! そんなに取り乱すなんて童貞説確定じゃないですか、この童貞! 」
 童貞、童貞じゃないと団栗の背比べ的言い争いがしばらくの間続いた。普段なら絶対話題に出さない互いの下半身事情にやや興奮気味になっている二人は唾を飛ばしながら罵り合う。妙な熱気が場を包む。

 先に根を上げたのはやはり劉備の方だった。わかったもういいから、と懇願する姿に孔明は満足げに口の端を持ち上げた。
「じゃ、そういうことで可哀想なチェリー君主劉備殿に度肝を抜くほどのスーパーテクニックを伝授してさしあげましょう」
「なんかすごく心配……」
 でもぼくのこと真剣に考えてくれてるみたいだし、案外いいことを教えてくれるかもしれないな。
「……ね、まずはどうしたらいいのかな? ほんとに最初の、一番最初は? 」
「そうですね…まずはやはり二人っきりになれる空間を確保することですかね。例えば寝室に押し掛けていくとか。まぁ夜這いをかけるということですけど」
「結局ソッチ方面か……というかいきなりそこまでステップアップ? 大丈夫なの? 」
「大丈夫、大丈夫。相手にその気があればあからさまに拒絶することはないでしょう。ガツンと当たって砕け散ればいいんですよ」
 砕け散っちゃったら嫌だよ! と声を上げつつ側にあった紙と筆を引き寄せる。墨に筆ををちょいと浸し紙面の一番右にさらさらと走り書きする。その一、夜這いで当たって砕ける、と書いてある。
「……首尾良く寝室に入り込むことができたら、次は適度なスキンシップを図ることですね」
「スキンシップ? 体に触るの? 」
「ええ、手を握ったり…あわよくば太股に触ったりするのも乙なモノかと」
「ええ〜…下心見え見えじゃないか。特に君の特殊な性癖が見え隠れしてるよ」
「見えちゃいますか? 」
「むしろ丸見えだよ」
 また一行書き足す。その二、スキンシップと達筆な字で。
「後は……相手の容姿や身体を積極的に褒めて差し上げるのもいいかもしれませんね。特に情事の最中に愛の言葉と共に囁けば効果も倍増」
「ふむふむ効果倍増……」
 こちらを見もせずいちいちメモを取る劉備に孔明は少しむっとする。
「なに馬鹿丁寧にメモなんて取ってるんですか。こんなものなくても覚えきれるでしょう」
「あっ、返せよう! 」
 さっと紙を引き抜き細切れに引き裂いてしまった。ぱらりぱらりと床に落とせばただのゴミ屑に。
「こんな破廉恥な内容の紙、持ち歩いちゃいけません! 」
 メッと叱られしおしお縮む。
「でも、ちゃんと書いておかないとぼく、どうしたらいいかわかんなくなっちゃうよ……」
「それなら一つ、とっておきのテクを教えてあげましょうか? 」
 衣を揺すって膝の上の紙屑を払い落としながら孔明が言う。何か面白い謀を思いついたようで、隠しきれない笑いを零すその顔は不気味だ。気後れした劉備は別にいいよ、と返すが孔明はそれを許さない。にやにや笑いのまま身を乗り出し机越しに耳打ち。こしょこしょと耳を吹き込まれる卑猥な言葉の羅列。少女のようにみるみる顔を赤く染め、終わりまで聞いてしまうと椅子の上ですっかり縮こまってしまった。困ったように眉の端を下げ定まらない視線を机上に滑らせる。孔明は至極満足げに主の初な反応を楽しんでいる。
「どうですか、これさえやれば意中の人もメロメロ、もう両思い間違いなし。後は野となれ山となれ、です」
「うー、でもやっぱりちょっと……その、えっとアレは……」
「アレ? オナニーのことですか? 」
「ぶっ! ど、堂々と言うなよそういう…あの、いやらしいことは……」
「いやらしくなんてないですよ。別に公衆の面前でオナニーしろと言っているわけじゃないんですから。ただ愛する人の前でその愛故に溢れ出るリビドーを解放するだけです! めくるめく悦楽地獄! すばらしい! 」
「うわー! 頼むから変なことばっか言わないでくれよお! 」
 耳を塞いで仰け反る劉備の胸ぐらを捕まえぐいと引く。悪意の固まりのような笑顔が鼻先まで迫ってくる。もういやだ、こんなの。心で悲鳴を上げながら硬直するしかない劉備に孔明は更なる空言を吹き込んでいく。
「がきんちょな劉備殿にもよくわかるよう説明してさしあげましょう」
 間近に響く低音にぞくりと身体が震え上がる。
「いいですか、相手が本当に自分を愛しているという確信があるならなんの心配もいらないんですよ。ありのままの自分をさらけ出してこそ相手も気を許し、全てを貴方に捧げようという気になるでしょう。だから」
 うう、と唸って改めて耳を塞ごうとする。が、浮かせた手を即座にはたき落とされてしまい叶わない。
「だから、想い人の真ん前でオナニーしなさい。是非しなさい。『お前のエロい身体にこんなにも興奮してるんだぜ! 』とばかりにひたすらせんずりぶっ掻きなさい。それも猿のように。あ、そうそう相手の下着を拝借してオカズに使うというのもいいかもしれませんね……劉備殿ダメですよ、ちゃんと聞いておかなくちゃ。後で実行できないと困るでしょう? 」
 ふるふると小さくかぶりを振り続ける劉備の顔を面白そうに覗き込み囁く。
「劉備殿……貴方が相談を持ち掛けてきたからこうして苦労して策を絞り出してあげたんですよ。わかってるんですか? 」
「わ、わかってるよ……それは本当にありがたいことだと思ってる。でも……」
「でも、なんです。はっきり言いなさい」
 着物の端を握りしめ堅く目を瞑る。赤く染まった目元と小刻みに震える身体が妙に興奮を煽るものだと気付き孔明は狼狽えた。まさか、こんなことぐらいで。しかし性的な話題が醸し出す雰囲気も相まって明らかに異様な空気が二人の間に渦巻いている。掴んだ着物の胸元が奇妙に熱く、間近に感じる呼気もまた熱い。止まぬ興奮。それに乗ってまた一つ追いつめる。
「ほら、黙ってないで。ほら! 」
 羞恥でわけもわからないまま唇をほんの少し開く。
「ぼく、そういうの苦手だし……は、恥ずかしいのは、嫌だよ……」
「恥ずかしいの、嫌いですか」
「うん、人前で裸になるのも…すごく、恥ずかしいし……。な、なのにオ、ナニーなんて、できな…い……! 」
 ぐすぐすしゃくりあげ始めてしまった。
 まったく可愛いなあ、単純で。そんなことしたってドン引きされるのがオチだとわかりそうなものを。やはりこいつを騙すのは面白い。今まで出会った中で最高の玩具だ。
 唇を戦慄かせながらぽろりぽろりと玉の涙を落とす。卓をぐるりと回り劉備の傍らに跪いた。頬を伝う雫をうやうやしい手つきで掬い取り甘ったるい声で慰めにかかる。
「私だって何も劉備殿を虐めたくってこんなことを言ってるんじゃないんですよ。全ては主君である貴方のためを思ってのことなんです」
 嗚咽を堪えながらうん、うん、と繰り返す。乱れた襟元をそっと直して髪を梳いてやる。
「なーんにも恥ずかしいことなんてありません。だって全ては愛のためなんですから」
「ほんと…? 恥ずかしくないの……? 」
「もちろん」
 微笑む軍師に安心した様子で笑顔を返す。堅い袖でぐいと顔を拭った。目の周囲が真っ赤になっている。
「落ち着きました? 」
「うん」
「では、さっきのことも全て理解して頂けましたか」
「うん。……君の言うことはみんな正しいと思うから、ちゃんとそれに従うよ。ありがとう、孔明」
 いい子ですね、と呟き頬に指を滑らせた。するりとなぞり名残惜しげに離す。ありがとう、ありがとう。繰り返される心からの言葉に胸が軋み顔がひきつれた。本当に馬鹿な奴。どうしてこんな簡単に人を信じるんだ。おかしいじゃないか。わかっている、自分が彼の信頼に堪えうる人間ではないと。それでも自分を信じてくれる理由は他ならない、彼の魂が綺麗だからだ。自分にはなんの一因もない。誰に対しても同じ。わかっている。悔しい、悔しい。

「劉備殿」
「えっ、なに? 」
「あんたの好きな人って誰なんですか」
 わざとらしく抑揚の押さえられた声。射抜くような瞳。劉備は困り顔で笑い言うべきか否か迷う。いつのまにか互いの手が重なっていた。縋るように手の甲を包んでくる軍師にまた薄く笑う。
「それは秘密だよ」
「人には言えないほどに大切な方なんですね」
 愛してるんですね、そうでしょう。眉根を寄せる孔明の手に一方の手を重ね握る。
「うん…いや、ちょっと違うかな」
「は? 」
「好きっていえば好きなんだけど…どっちかっていうと家族愛っていうか……恋愛で好きなのとはちょっと違うんだよね。大切は大切だけど、ぼくにはもっと大切な物があるから」
「天下ですか」
 悲しげに口の端を上げこっくり頷く。
「あんたにとっては想い人も戦の手駒に過ぎないんですね。馬鹿馬鹿しい。相談に乗って損した。恋も愛も全て后を何人も娶ってお世継ぎを産ませるための道具だなんて」
 つまらない。人生に色がない。不誠実だ。努めて冷静に罵る軍師は内心でいきり立っている。君主はそんなことを言われる筋合いはないとばかりに首を振り立ち上がった。衣を翻し戸口へ向かう背になおも罵詈を投げかける。このろくでなし。悲しい響きを含む声。どうあっても届かない声。
「そうだよ、ぼくはろくでもない奴なんだ」
 ちらと振り返る王の、暗く冷たい瞳。貫かれ息を詰める。
「ぼくは目的のためなら全部、みんな利用してやるつもりさ。どんなことだってやってやる。それが後ろ指を指されるようなことでも」
「あんた、やっぱりおかしいですよ」
「でも君にもあるだろ、後ろめたいことの一つや二つは」
 それだけ残し君主は去った。一人取り残された軍師はやっとの思いで椅子まで戻りどっかりと身を沈め込んだ。
 後ろめたいことは、もちろんある。全くの嘘偽りを吹き込んで彼と彼の想い人との完全な破局を企てたこと。つまりは嫉妬していたこと。すなわち、彼を愛しているということ。
 書に手を延ばしかけやめる。どうか、どうか失敗しますように。どんな女だかしらないが、彼がそいつと自分以上に親しくなりませんように。そして恋破れたならその時は、思い切り優しく慰めてやろう。甘やかしてやろう。そうしたらもっと自分に縋り付いてくれるに違いないから。
 書に指を引っかけまた止める。気もそぞろ。何も手に着かなくなってしまった軍師はただ真向かいの土壁を見つめぶつぶつと独り言を呟くしかなかった。気付かれぬまま一匹の蜘蛛が壁面を悠々と横切っていった。