交ワリハヨリ深ク、濃ク



 淡い灯が夜闇をじわりと染め上げる。絹を掻く音。温む空気を震わす荒い息づかい。どこか苦しげな、鼻にかかったような声。気だるく熱く二人分。

「……っあ、う…そ、こは、あ……ぁ、は…」
「こ、孔明……」
「…んうぅ! そ、んなッ、強く、したら…っあ、ダメです…っは、はあぁ……! 」
 絹に顔を埋め小さく首を振るう度、流れる黒髪が褥を打った。波紋のように形を変え趣を変え、するすると白の上を滑る。
「あっ…痛いの? 」
 返事の代わりに赤く色づいた唇をこれもまた赤い舌でぺろりと舐め上げ終わりにきゅっと噛みしめる。波打つ声を殺し潤む目も瞑り、掌は頑なに敷き布を握りしめ放さない。白い手指が時折ぴくりぴくりと跳ねる。
 爪先が赤くなるまで力が込められている様を後ろから見下ろしていた劉備は情けなくも少し不安になった。苦しいんだろうか、痛いんだろうか。人の苦痛を見ることに己が酷い仕打ちを受けること以上に耐えられない性分であった彼はもう居ても立っても居られない。そっと手を延ばし眼下に揺れる黒を指で一掬いする。そのままするりと流せば指先にはなめらかな感触だけが残る。やや前のめりになり腹の下で呻いている部下の、露わになっている方の耳に顔を近づける。
「あのさ、その。い、痛いんだったらあんまり、無理しない方が……」
 おずおずと漏らされた思いやりの言葉。しかしかけられた本人は肩越しにぎっと睨みを返してきた。鼻先がぶつかりそうになり慌てて仰け反る。
「なに馬鹿なこと言ってるんですか! こんな半端な所でやめたら生殺しもいいとこじゃないですか! 無駄口叩いてる暇があったら、ほらさっさと続き! 」
「ご、ごめん……」
 怒鳴られしゅんとする劉備を後目にぷいとまた布に頬をくっつける。むすっとした顔で寝台の外を睨め付けてから、ほんの少し、期待を込めた目で劉備を見遣る。
「……ぼさっとしてないで、ねぇ劉備殿。早く、もっと気持ちよくしてください…少しくらい痛くてもいいですから」
 消え入りそうな言葉尻をその熱っぽい視線と共に拾い上げた劉備はう、と短く息を飲んだ。
 縋るように見上げてくる瞳、乱れた絹髪とその際に覗く真白なうなじ。掌に感じる背の堅さ、なだらかな曲線。全体的に肉の薄いのがよくわかる。掠れるように小さな喘ぎが追い打ちのように耳を擽る。いつもと違う。何もかもがいつもと違い、一つ一つが香り立つように身の内を撫でていく。腹の底辺りがじわりと疼く。悪い虫が這いずり回っている。まずいな。これはいけないことだ。
 紛らわせようと、華奢な体に一層深く体重をかける。ぎ、と寝台全体が悲鳴を上げる。体の下でも呻きが漏れる。
「う、っく……」
「あ、やっぱり痛い? 」
 問いかけにはふるふると首を振って応える。
「苦しかったら言ってよ。すぐやめるから」
「…ん、は…ぁ、やめ、ないで…く、ださ…もっと、もっとぉ……」
 敷き布を目茶苦茶に掻き回して爪を立てる。ぴんと立てられた足の爪先が虚しく布目を掻き、滑る。苦しげに引き結ばれた唇。震える丸い頬。僅かに朱がさして見えるのは傍らで揺らめく炎の所為ばかりではないだろう。汗が一筋つうとこめかみを伝う。
 よほどつらいのだろうか、と劉備は眉を寄せる。それなら一思いにやってやった方が彼の為かもしれない。うん、その方がいい。ただ、自分の体力が最後まで保てばいいんだけど。
 腰を掴む手に力を込めまた体重を乗せてやる。布に顔を埋めたままの孔明が声にならない声を上げる。ひくりと腕の筋が震える様は痛ましいほど。そのままぐっぐっと押しつければ鋭く声を上げ猫のように背をそらせた。爪先は力が入りきゅっと丸まる。
「…大丈夫? 孔明……」
「あ、あぁ…は、それ、いい…! そ、そこが…あ、いい…、りゅ、びど、の…もっと、は、はあぁぁ…ぁ…」
「ここが、いいの…? 」
「はい、そこ…そこ、きもちいい……! 」
「こ、こうめ…ぼく、もう」
「んん…っあ、待って、あともう少し、だけっ! 」
「あ、ちょっと無理…きっつい…も、我慢できないよ……! 」
「こ、の意気地なし! ダメ人間! 」
「そ、そんなこと言われても、無理なもんは無理で……」
「……お願いします、あと、ちょっとだけ…っう…お願い、だから……」
「無理っ! もう限界! …ダメだ、もう終わり! はいおしまい! 」

 劉備はぐてんと大の字になって背中から倒れ込んだ。酷使した腕と手指を頭の上で曲げ伸ばししてううと唸る。
「ちょっと、劉備殿! こんなところでおしまいなんてどういう了見ですか! こっちはまだ全然よくなってないんですけど! 」
 襟元を直しながらむくりと半身を持ち上げる孔明。肩越しに睨みつつ自分の下半身に乗りかかっている劉備の足を思い切り下から跳ね上げた。もんどり打って寝床から落ちそうになるのをどうにか持ち堪え座り直す。ふうんと息を吐いて唇を尖らせる。
「なんだよう、こっちは小一時間に渡って腰のツボ押し続けてげっそりくたくたなんだよ! もうガッツもなんにも残ってないや。というよりなんで君主のぼくが君に指圧マッサージしなきゃならないの? なんかおかしいよね? 逆のケースは儘あるとしても」
 帯をしっかり結び直し裾もさっと払って整えた孔明はごろりと寝転がって鼻をほじり始めた。むっつりと黙り込んで問いかけに答える素振りも見せない。
 無礼な態度に劉備はぎりぎりと歯ぎしりをする。ただし軍師にはばれない程度の控えめな音で。また唸りを一つ上げ額をかく。まったく、困った奴だなあ。主をこき使って自分だけ気持ちよさそうにしている部下についさっきまで腸が煮えくり返る思いをしていたというのに、なぜだか当の本人の顔を見ていると沸き立った腹の底もすっと収まってくるような気がする。自分でも不思議だ。
 むすっとした顔をしながら鼻に突っ込んでいた小指を人の枕に擦り付けている。それを何も言わずぼんやりと眺める。あーあ、さっきは十分やったら交代って言ってたのになあ。当てになんないなあ。でもそれはいつものことだしなあ。

「あのー…孔明? 」
「なんですか、出ていけと言うんでしたらお断りですよ。こっちはもう腰の痛みを全部劉備殿に取り除いてもらおうという気で来てるんですから。よくなるまではテコでも動きません! 」
「うわあ…面倒くさい奴……君はぼくを整体師か何かと勘違いしてるの? 」
「違うんですか? 」
「違うよ、全く違う職種の人間だよぼくは。というか、そんなに酷いんならお医者さんに見てもらった方がいいんじゃ……」
「やです。知らない人にべたべた触られるなんて気色悪いし、それに」
「何? 」
「劉備殿じゃなきゃ意味ないですから」
 早口に言ってから枕を抱き込み顔を埋めてしまった。黒髪がふわりと小さく揺れている。
 胡座にした足の裏をぽりぽりかきながら劉備は呆気に取られた顔でその様子を眺めていた。自分のすぐ膝元には剥き出しの白い足が二本、無防備に投げ出されている。筋の浮いて締まった、形の良い足。どこか表面が汗のためにしっとりとしているように見える。手に吸い付いてきそうななめらかさ。それも今すぐ触ってくれと言わんばかりの。劉備はその誘惑を前にまだぼんやりとした顔をしていた。
 自分じゃなきゃ意味がないとはどういうことか。まさかマッサージのような仕事は下々の者がやるものだから、ぼくみたいなしょうもない奴にはお似合いなんだとでも言いたいんだろうか。わざわざ主を貶めるために部屋まで押し掛けて来て、自分だけ気持ちよくなって、面白がって、あんまりじゃないか。フン、あんな恥ずかしい声まで出しちゃってさ。人を馬鹿にしてんのか。
 劉備はあれこれ考えている内にまた腹の底がむらむらと煮えてくるのを感じた。しかもこのむらむらはさっき乱れに乱れた部下の姿を見た時感じたむらむらとよく似ており、それと今のむらむらが果たして怒りのためだけに起こったむらむらなのか劉備当人にもまるで見当が付かない。
 じっと、青年の均整の取れた肢体を見回しながらさてどうしてくれようかといきり立つ。目に留まった、無駄な肉のほとんどない健康的なふくらはぎ。そろりと手を伸ばしその頂をなぞる。

「…あっ、何するんですか! 」
 驚き顔を上げた孔明の咎めるような視線にまたちょっと興奮がしぼんでくるが劉備は構わずに目の前に晒されている白いふくらはぎを鷲掴んだ。思った通り、しっとりと吸い付く若い肌。
「ここも、きっと凝ってるだろうからしっかり解さなきゃ。……ほら、ちゃんとぼくがやってあげるから君は大人しくしててよ」
 枕に顔を半分埋めて孔明がむむと唸る。
「まあそう言うんなら…しょうがないですね」
 いつのまにか乱れて捲れ上がっていた裾をさりげなく直そうとしているのをこちらもそれとなく手で制してふくらはぎから腿の裏までを撫でさする。
「うわ、すごいパンパンになってるよ。キツかった? 」
優しく柔らかな声音と裏腹な、堅く力強い男の手指。下肢を這いずり回る慣れぬ感触に孔明は沸き上がるむず痒さをなんとか受け流さなければならなかった。すっと膝裏を撫でられまた優しくふくらはぎを揉みしだかれる。投げ出した両足がひくつかないように堪えるので自然足先に力が入る。
「え、ええ…少し、無理をし過ぎたみたいでっ…! …う、この前の、登山で……」
「へー、君ってアウトドアに慣れてそうだから筋肉痛になるなんてヘマやらないと思ってた」
「そ、れはこの前はたまたま高山登山にチャレンジしてしまったからで……やっぱり登山は、ちょっとどこ触ってんですか…低山に限りますね、まったく……」
 薄い肌着を捲り上げ足の付け根に這い上る指。うすべったい尻を隠そうと裾をぐいと下へ引っ張る。
 眉間に皺を寄せ目元を赤く染めているその様子をちらと盗み見て劉備はやはり興奮するしかない。いつもと違う。全く違う。普段の彼は何が起ころうと、例え宇宙人が襲来しようとも顔色一つ変えないでにやにや笑っていそうな、そんな奴だ。それが今自分の指先一つで身悶えせんばかりに喘ぎ、啼いている。
 女をどうにかするよりも、社会的地位も気位も馬鹿が付くほど高いこの男を蹂躙する方がよほど征服感を満たせると知る。もっと、こいつの知らない部分を見てみたい、暴いてやりたい。もし最後までいってしまったら彼はいったいどんな顔で自分を見るだろう。嫌悪に顔をひきつらせ聞くに堪えない罵声を投げつけてくるだろうか。それとも熱にうっとりと蕩けた瞳で恋人を見るように自分を見つめてくれるだろうか。
 劉備は目の前に投げ出された男の体をしつこく撫で回す。狭く薄い背から腰。寝間着の上からでもよくよく触ればわかる、綺麗に腹筋の浮き出た腹。そしてそれより更に下。
「うっ! や、やめてください! どうしてこんな、いきなり……」
 いつのまにか仰向けにひっくり返されていた孔明は足をばたつかせ逃げを打とうとするが馬乗りになられてしまい叶わない。腕をつっぱってみようともするがこれもすぐ捕まえられ布団に押さえつけられる。凄まじい力だ。堪えきれず痛い、と零し顔を歪める孔明を見て劉備は一旦、酷く弱ったという顔を見せた。
「ごめん、痛いよね…やっぱり」
「劉備、殿…こんな、つまらない冗談は……本当に…」
 放心した顔で弱々しく首を振る部下の姿に甘美な物が腰骨のあたりを再びせり上がってくる。腹の底を渦巻く何か悪いもの。腹が立っていると思いこんでいた物は実は、欲求不満から来る下半身的な切迫だったようだ。沸き上がる破壊衝動。こいつ、滅茶苦茶にしてやりたい。
 枯れ枝のように細い手首を力の限り握りしめる。ひっ、と声を上げ見上げれば覆い被さってくる主の顔。あまりにも真剣な顔だった。眉を寄せ、睨むように自分を見下ろしてくる王。孔明はその形相を恐ろしいと思うと同時に嬉しいとも思った。心のどこかで彼がこうしてくれるのをずっと待ち望んでいた、そんな気さえした。しかしこれはあまりにも急だ。彼に体を触らせるようなことをさせたのにも全く下心がなかったわけではないが、まさか不意に獣か何かのようになって襲いかかってくるとは思わなかった。まるで飢えた野犬のようだ。どうやら、自分の容姿や身体というのは彼には思った以上に魅力的に映っているらしい。
 目の端で薄い着物がするすると捲り上げられるのを見る。露わになった両足の間に割って入ろうと躍起になっている劉備に目を移し思う。さて、どうしたら良いだろうか。今、自分はどうするべきなのだろうか。

「こ、うめい、なんで……」
 ふっつりと、糸が切れたように抵抗しなくなった孔明に劉備は驚き、着物を脱がしにかかっていた手を止める。孔明は鋭い目でじっと劉備を見据えたまま微かに唇を動かした。
「あんた、そんなに私としたいんですか」
 劉備は息を詰まらせて仰け反る。迷うように目を泳がせてから一瞬、自棄になったようにまた伸し掛かる。鼻先が付きそうなほどの近さ。押さえきれない欲望で火が灯ったように明るい瞳。
「うん、そうだよ、悪い? ぼくは君といやらしいことをしたいんだ。今すぐしたいんだ。だって、だって君があんなエッチな声出して、すべすべ綺麗な身体で、ぼくを誘ってくるからいけないんだ。しょうがないじゃないか」
 切羽詰まったその声を孔明は馬鹿にしたように笑う。
「はっ、しょうがない? 何がしょうがないんだか。それで言い訳になると思ってるんですか。あろうことか部下を手込めにしようとしていることの言い訳に? 」
「な、なんでだよ」
「あんたがこれ以上何かしたらね、すぐに大声で人を呼びますよ。そしたらあんた、男を強姦しようとしたってみんなに笑われますよ。女に相手にされなくてホモに走った変態野郎って。ただでさえ見下されてるってのにまた更に評判が下がったら…きっと見物でしょうね」
 くくく、と喉を震わせる孔明に劉備はかぶりを振って応える。眉を悲しげに歪め何かに堪えるように歯を食いしばる。
「違うよ…そんな、そんなんじゃない! ぼくはそんな……」
「違くない! あんたは突っ込む穴があればなんでもいいんでしょ! そうやって手っとり早く気持ちよくなって、ついでに相手の意に添わないやり方で犯して支配欲まで満足させようとしているんだ! 普段口では私に勝てないから、腕力で屈服させて思い通りにしてやろうと思ったんでしょ。本当に単純、いかにも能の足りない奴が考えそうなことだ」
 言い終わる前に喉首を凄まじい力で押さえつけられた。すぐ目の前には、目を血走らせ獣のような唸り声を上げている君主。怒りにまかせて繰り出された腕はぎりぎりと細い首筋を締め上げ痛めつける。
 しまった、言い過ぎたか。なんて力だ、これは殺されかねない。その予感に孔明はもがき暴れる。

「ちくしょう! この野郎、いつもいつも人を馬鹿にしやがって! ぼくがヤリたいって言ってんだから大人しくヤラれてればいいんだよ、女みたいな顔してんだからさあ。お前なんて、ぼくの力加減一つで気絶させるのもくびり殺すのも思いのままなんだぞ。馬鹿にすんな、馬鹿にすんな。それでも嫌だって言うんだったらな、し、死刑の命令を出してその綺麗な首をすっぱり切り落としてやることだってできるんだからな。ぼくを誰だと思ってんだ。お前をこ、殺すのなんか簡単なんだぞ、わかってんのか! 」

 荒々しくがなり立てる声が耳元でぐわんぐわんと鳴っている。
 これが、こいつの本性なのか。
 孔明は徐々に遠のく意識の中で泣くに泣けない苦しみを味わっていた。ついさっきまで自分に投げかけられていた困ったような微笑みとか、優しく気遣う穏やかな声だとかが、もうとんでもなく遠い夢の出来事のように思えて孔明は唇を歪め呻いた。
 調子に乗った自分が悪かったのだろうか。彼を試すような物言いをしたのがいけなかったのだろうか。しかし、それでも欲しかったのだ。彼が確実に自分に愛情を抱いているという証を。それが本物なら、あれくらいの雑言で怒り狂うはずがない。自分の、そういう減らず口ばかり叩いてしまう悪い部分もひっくるめて全部愛してくれなければいけないのだから。それが何より当然のことなのだから。しかしどうやら彼の抱くそれは全く別のものだったようだ。
「劉備殿……」
 喉に深く食い込む親指がほんの僅か緩んだ隙にただそれだけ呟いた。
 空気の漏れるようなか細い音。ぐ、と息を飲む音。眠るように瞼を閉じる。間近に聞こえていたはずの荒い息がだんだんと遠ざかる。いよいよ死が近くなってきたのか。まさか痴情のもつれで男に殺されることになるとは思わなかったなあ。しかしそんな最期も、今まで滅茶苦茶やって人の恨みを買ってきた自分にはお似合いかもしれない。
 孔明は弱々しげに口の端を上げると後はもうぐったりと力を抜いて殺されるのを待った。さあ、いつか。いつ貴方はこの愚かな私を殺してくれるのか。一分後か、一秒後か。人形のように横たわり待つ。が、待てど暮らせど、眼前に冥府の門らしき物が見えてくることはなかった。それどころか段々と意識がはっきりしてきて、息も苦しくなくなってきた。首にまとわりついていた指の、焼け付くような感触も消えていた。

「劉備殿? 」
 目を見開き半身を起こす。くらりと目眩がして頭を押さえる。歪む視界の先に劉備の丸まった背中が見えた。孔明からは一番遠い寝台の端に座り俯いたまま、整えられた髪に片手を突っ込んでぐしゃぐしゃとかき乱している。注意して聞いてみれば低く小さく唸っているのがわかった。
 孔明は膝立ちでそっとにじりよるとゆらゆら前後に揺れるその背中をつんと指で突っついてみた。電流が走ったように跳ねる体。どうしたんですか。聞いても返事がない。訝って横から顔を覗き込んでみる。ぐしゃぐしゃのぼろぼろだった。嗚咽が漏れぬよう歯をこれでもかと食いしばり、しかし涙や鼻水は零れ落ちるままにまかせているのでそれはもう醜い様相となっていた。う、ぐぐ、と息を飲みしきりにしゃくりあげるのを見ていると孔明は自分まで胸が苦しくなってくるようだった。額に手を当てたままがたがたと震え続ける体を迷うことなくひしと抱いた。
「ごめん孔明、ぼく、あんな……本当に酷いこと、して」
「ええ」
「君がすごく、かわいかったから…なんだかドキドキしちゃって、一人で勝手にむらむらして…君の所為なんかじゃ、これっぽっちもないのに」
「ふふ、堪え性のない人ですねぇ」
「それで、君がぼくのことどうしようもない奴だって怒るから、なんか腹立って、でも君の言ってることはすごく正しくて、だから余計カッとなって、それであんな……酷いこと言っちゃって。こんな奴! って思って、ぼくは、君の首を…首、首くびくびをしめて、殺し、殺殺殺そうとし、たたた、殺し、殺され、う、わあぁあぁぁあぁ!! 」
 頭を抱え気が狂ったように泣きわめく劉備を羽交い締めにするようにして押さえ込む。貧相に見えて妙に力のある肉体に幾度もはね飛ばされそうになりながら夢中でしがみつく。打ち上げられた魚のように暴れる体も孔明の根気良さの前に段々と落ち着きを取り戻す。二人、密着して肩で息をすればそれはどこか、果てた後のようにも見えた。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい、ごめん……こんな最低な奴、謝らなきゃ、本当に最低で……」
「そうです、貴方は本当に最低な、どうしようもない人間です」
「ぼくもう、君に触ったりしない。顔も見ない。話したりもしない。だって変な気持ちになっちゃうから。ドキドキするんだ、頭がおかしくなったみたいだ」
「だったらもっとおかしくなってみませんか? どうせもう、ここまで来ちゃったんだし」
「……」
「ね、私も楽しいこととか、気持ちいいこととか好きですから。暇つぶしになるんなら付き合ってあげてもいいですよ」
 心にもないことだった。本当はもう喉から手が出そうなほどに目の前の男が欲しかった。どうしようもなく求めていた。溢れる欲望の前ではもはや恐ろしいという思いも湧いてこなかった。
 なに、こいつはちょっと頭の弱い、気の優しいのだけが取り柄の男なんだ。可愛い人。どうってことはない。恐るるに足らず。
 劉備が赤く腫れた瞼を向けて言う。
「でも、君さっきすっごく嫌がってたじゃないか」
 慈愛を纏った空々しい笑みと共に孔明が返す。
「それはそれ、これはこれ、でいいでしょう。さっきと今とで気分が変わったんです」
 絹の上にゆっくりと寝そべりながら劉備の着物の袖を引っ張る。引かれて劉備もおろおろと上体を傾ける。

「君は気まぐれなんだね」
「よくあることです」
「好きだ、孔明」
「わかってます」
「ぼく、やっぱり君じゃなきゃ嫌だ。君じゃなきゃ意味ないよ。男だからとか女だからとかそんなんじゃなくて」
「私と同じですね」
「……本当にいいの? 」
「どうぞ、お好きなように」
「許してくれるの? 」
「もちろん。少なくとも私の気の変わらない内は」
「よかった…ありがとう、今度は痛くしないようにがんばるよ……でも、ぼくにできるかなあ? 」
「せいぜい努力しなさい。私は関知しませんよ」
「うん、やってみる」

 開き気味になった足の間に下半身を割入れ、薄い腹を両手で愛おしむように撫でさする。そこから上へ、袂をなぞって胸板へと這い上がる。覗く肌の白さ。喉が鳴る。矢も盾もたまらず一気に襟元へと両手をかけた。
「あ、待ってください」
「えっ、やっぱりダメなの…? 」
 焦りをみせる主にふふ、と小さく笑い。
「いいえ、そうじゃなくて。ただ何か忘れてませんか? 」
「なんだろ、わからないよ……それって大事なこと? 」
「ええ、とっても。ほら、物事には順序ってモノがあるでしょう。わかりませんか? 」

 あ、と小さく声を上げまじまじと部下の顔を見下ろす。
 いつものように、にやりと上げられた口角。ほの赤い唇。吸い込まれるように体が傾き、瞬きする間もなく、その赤に食らいつく。