夢から堕ちて、夢に彷徨う



関羽が死んだ。
その悲報を受けてからもう幾日経ったかわからない。何故自分が今ここまでの泥沼にはまってしまっているのかもわからない。

私はこの年になるまでよく戦ってきたと思うし、その戦い振りに見合うだけの武勲も上げてきた。版図は成都を中心として数百万の民を抱えるほどにまでに膨れ上がっていた。
しかしそれらの功績は決して私一人によるものではない。若き日に義兄弟の契りを結んだ関、張の二人を始めとしてその他数多の誉れ有る英傑たち。国の為にその命をなげうち尽くしてくれた多くの民たち。そして忘れてはならない、我が最良の友にして最高の軍師であった臥竜、諸葛孔明。

今思えば私の一生は決して不幸なものではなかった。私自信には何一つ誇れるような才気が無かったにも関わらず、多くの素晴らしい者たちが私などのためによく働いてくれた。どうやらこのまま天下統一という夢を果たすことは叶わないようだが、このような良い友と多く巡り会えた私は本当の幸せ者なのだろう。世間一般の人間からしてみればそのような友に出会う僥倖など一生の内に一人分あるかないかといったところだろうからだ。
ならば、なんの悔いもなく私は死んでいけるのではないか。いや、いやそれはまた別の問題だ。

今私は彼岸の縁に片足を突っ込んでいるような状態であり、身動きすれば老いた体の端々が痛み咳をすれば痰と共に血を吐き出す始末だ。
それでもそんな状態に幾日も耐え、ただ関羽を失った悲しみとその復讐戦が全くの失敗に終わった無力感を歯の奥で噛みしめるだけだった。
私はまだ死にたくないと思っていた。

何故、何故関羽は死ななくてはならなかったのか。関羽は私が最も頼りにしてきた真に精強な武将であった。その隆々とした腕から繰り出される一振りは数多の敵を諸ともせずに薙ぎ倒すほどで、いつもその威風堂々たる姿に惚れ惚れとしたものだ。
そんな男が死んだのだ。いや殺されたのだ。孫権という男はまっこと侮れん、抜け目のない王だったのだな。だが今更それに気づいたところで遅いのだ。もう、多くの者が去ってしまった。一人また一人と仲間を失っていくのはあたかも体の一部をもぎ取られるかのようで、そのたびに酷い痛みが全身に走った。頼みの綱であった頑強な武将たちはもう幾人と残っていなかった。
そしてあまりに多くの兵を死なせ過ぎてしまった。民衆の息子や父や、あるいは兄をこんなにも奪ってしまった以上、もう彼らに顔を合わせることもできず、したらば当然成都にも帰れるはずなくだからこそこんな場所に引きこもってこそこそと息を潜めているのだ。

ああ、何故こんなことになった。途中まではそれなりにうまくいっていたではないか。
軍師に諸葛亮を迎え赤壁の戦いに勝利し天下三分の形態に入ったまではよかったのだが。
ああ、何故だ。何故奴らには勝てない。私と奴らとでいったい何か違いがあるっていうのか。確かに奴らの方がずっと強いかもしれないけど、それならこっちだって強い武将はたくさんいたんだ。誰が天下を取るかなんて誰にもわからないじゃないか。そうだ、まだだ、まだぼくは戦えるんだ。諦めないでがんばって戦い続ければきっと夢は叶うんだ!
あっ、そうだ。そうだった。すっかり忘れていた。戦い続けるにはまた軍を整えなきゃいけないんだ。孔明に頼んで、今度こそちゃんとした兵士を用意してもらわなくちゃ。
まったく孔明もヒドイ奴だよなあ。たった二人の兵士じゃあどんなにガッツがあったって戦えるわけないもんなあ。
彼らには本当に済まないことをしたと思ってる。一応粗末な墓だけど作って供養してきたから、ちゃんと成仏してくれるといいんだけど。そうしたらあの二人の家族もぼくを許してくれるだろうか。

後は強い武将が必要だな。でもみんなみんなぼくの前からいなくなってしまった。どこにいっちゃったんだっけ?
それは、それはもう手の届かない彼岸のそのまた先の涅槃のあの世の。
そうだ、みんな遊びにいってるんだっけ。まったく、揃いも揃って有給休暇なんて絶対何かのインボーに違いないんだ。給料ドロボーめえ〜、温泉饅頭くらい買ってこい!
もう、みんな薄情だなあ。ぼくが恥ずかしい格好で駆けずり回ってる間にみんなは温泉、孔明は低山登山それで、それで……。関羽は……?
まったくもって惜しい男を失ったと私は無念に思う。あのような忠誠心の強い屈強な武将は他に換えなどいないのだ。
あっ、そうか関羽は海に行ったんだ。イルカと戯れたいなんて顔に似合わないかわいい夢語ってシュノーケル持って行っちゃったんだ。もっと早く言ってくれればダイビングに行く時間くらいいくらでもあげたのに。帰ってきたらなんて説教してやろうか。でもあいつキレると怖いんだよなあ……。
孔明も孔明だ、作戦も立てないで一人で悠々と野山を散策だなんて! あいつは結構自分勝手な奴で何考えてるかわからないから不安になるよ……。
諸葛亮は私の死後、国の為になる存在であろうか。奴の天賦の才は他の追随許さないほどのものだ。信用できぬ。ひとつ死ぬ前に釘を刺しておくのがよかろう。
それにしても同盟相手の孫権が宇宙人だったのにはびっくりしたなあ。しかも曹操までもだ。道理で勝てないはずだ。奴らとこちらではあまりに力の差が歴然とし過ぎていたのだ。私にはただ尻尾を巻いて逃げる道しか残されていなかった。
あの時、赤壁で負けた曹操が最後ぼくに何か言っていたな。なんだったっけ。いや、どうせ負け犬の遠吠え。大したことじゃないさ。

それにしても、ああむしゃくしゃする。どうしてぼくは強くない、勝てない、天下を取れない。いや、まだ天下を取れないと決まったわけじゃないか。それでも困難な道であることは変わりない。
ぼくは子供の頃からずっとこの大陸の王になることを夢見ていた。なぜならこのぼくはかつて大陸を支配した漢王室の一族の末裔であるからだ。
天上は血によってぼくを選び、その壮麗たる玉座を速やかに私に明け渡すはずだったのだ。
そのためならぼくはなんだってやってやる。どんなに犠牲がでようが構わない。だって、そうだろう。彼らだって新たな歴史を形作る礎になれるのなら、命など惜しくはないだろう。そうだ、王となるぼくの為に死ぬのは民衆の義務だ、責務だ、正義だ、当然の道理だ。それに逆らう者は最早我が領地に杭一本打ち付けることすら許されぬと思え。

急に胸が締め付けられるように痛む。なんだこれは。痛い、痛い。ええい、負けられないぞ! どんなに敵が強くてもぼくは諦めない。絶対に最後まで戦い抜く。たとえ、相手が宇宙人であってもだ。
胸に激痛が走る。酷い咳が止まらない。口を押さえていた掌を見るとそこには血が血が血が真っ赤な血がべっとりとこびりついた血がちがちが違う! こんなもの違う! ぼくのじゃない! ぼくの血なわけがない。

だってぼくはまだこんなにわかくてげんきなのに。

節くれ立った指先で着物の前をかきあわせ胸を押さえ込む。地獄の釜のように煮えたぎる血の熱さに胸をかきむしり寝台の上を転げ回る。のたうち回る。
人払いをしてしまったから周りには誰もいないのだ。
ぼくはまだ死にたくないと思っている。
そうだ諦めさえしなければ、どんな困難な夢だって叶えることができるんだから。
胸の骨を砕くかと思われるほどの熱い迸りにいよいよ痛覚が麻痺し始める。目の前の景色がぐるぐると回りながら空間の彼方に消えていく。恐怖のあまり手を伸ばし何かに縋りつこうとするが、ただ空をかくばかりで何も掴めやしない。喉が詰まり、思い切り息を吸い込んでも酸素が全く肺に入ってこない。
わあ、このままでは死んでしまうじゃないか。死んだら夢もなにもかも消えてしまうじゃないか。そうすればぼくは何一つとしてこの世に残すことができなかった真の負け犬になってしまうんだ。そうであるからこそ、私は年甲斐もなく溢れ出る涙を堪えることができないのです。

いやだ、いやだ! こんな終わり方は御免だ! どうしてぼくの傍に誰もいない。どうしてぼくは戦えない。どうしてぼくは勝てない。どうしてぼくは、死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬのだ、死んでしまったら後にはもう何も残らないのだ。そうして一人空しく消え去り、誰にも顧みられることなく忘れ去られていくのだ。
ちくしょう、どいつもこいつも馬鹿にしやがって。そうさ、どうせぼくは負け犬さ。
ぼくは最期に全てを諦めてしまった。急速に狭まっていく思考の裏でただ一つの文字が奈落への道しるべのようにギラギラと輝いている。

だからこそ私は最期に知るのだ。絶望した夢に捨て場所などないのだということを。

そうだ、どんなに諦めて忘れてしまったような振りをして見せても心の奥底では永遠に燻り続けるのが見果てぬ夢だ。たとえそれが死の間際であっても、同じこと。

ああ、やっぱりいやだ。こんなのいやだ。死にたくない。諦めたくない。まだぼくは戦えるのにはははははあなたのようなむちでむがくなおとこにてんかをとるなどむりなこととさいしょからきまっていたようなものをはははうるさいうるさいおまえになにがわかるぼくはまだたたかうんだたたかってゆめをかなえるんだそんなものなにもかもがまぼろしだったのですよさあゆめからさめるじかんですさめるといってもえいえんのねむりにつくということですがねはははあははふざけるなぼくがしぬわけないじゃないかだってまだこんなにあれおかしいなもうからだがうごかないいきもできないめもみえないいやだいやだこんなことがゆるされてなるものかぼくがわたしがぼくがこんなところで死








彼が鬼籍に入られてからもう数刻も経っただろうか。私はそれから今までずっと彼の枕元を右往左往して過ごしている。
入れ替わり立ち替わりやってくる人の対応に忙しかったのもようやく一段落した所だが、それでも落ち着き無くうろうろと部屋を歩き回っている。というのもただ死んだその人の顔を腰を落ち着けてまじまじと見ることが非常に躊躇われたからという簡単な理由からである。生きている内でさえ衰弱しきった主の顔を見るのは本当に忍びなかったのだから死に顔となればなおさらのことだった。

彼の命がもう保たないだろうということを知らされ急いで成都からやってくればそこには病床に喘ぐ王の姿があった。
私の姿を薄く目を開いて認めると王は嬉しそうに「よかった、今日は登山に行かないで真っ直ぐぼくの所に来てくれたんだね」と呟いた。
思えばここからもうおかしかったのだ。何故なら私は若い頃に野山を歩くのが好きだったとはいえ、彼に仕えてからは山登りのような遊びは一切していなかったからだ。
それに加えて言葉使いが妙に子供じみていることも気になった。熱に浮かされて頭の動きが鈍っているのだろうかとも思ったがそれにしても変だ。
こんなこともあった。彼の元にやってきてから幾日か過ぎたある日のこと。枕元に座り静かに会話を交わしていると突然彼が私の頬を掌で挟み込みそのままじろじろと顔を眺め回し、君はしばらく見ない内に随分と老けてしまったね、と笑ったのだ。

それから支離滅裂な言動が目に付き始めた。
しきりに窓の外を見ては「みんなはいつ帰ってくるだろうか」と不安げに尋ねる。
みんなとは誰です、と尋ね返せば彼はみんなとは遊びに行ってしまったみんなのことだ、ぼくを置いていつまでも帰ってこないなんてぼくはみんなに見捨てられてしまったんだろうか、と遠い目で答えた。
すぐにそれがこれまでの戦で討死した武将たちのことであると気がついた。
彼は特に関羽のことを心配し自分は彼に嫌われてしまったんだろうか、と涙ながらに繰り返した。
私は当然、関羽殿も皆ももう亡くなられたではありませんか、と諭した。
彼は黙って何も言おうとしなかったが、ただ必死になって聞こえなかった振りをしているだけのようにも見えた。

明くる日、彼の枕元でこれから我々のとる戦略についての進言を行っていた時のこと。そんなんで本当に奴らに勝てるのか、と訝る王になるほどよほど後に残す我々のことが不安なのだろうなと思い大丈夫ですよと気休めまでの返事をした。
すると彼はキュッと眉を上げ、そんな簡単に大丈夫だなんて言えるか、相手は宇宙の技術を駆使する恐ろしい宇宙人なんだぞ、ぼくはたくさんの兵士が一瞬で焼き殺されるのを見たんだ、そんなんじゃ駄目だ勝てないよ、と泡を飛ばしながら私を罵った。
呆気にとられながらも何とか息を荒げる王を宥めようと言葉を継ぐ。
いったい何をそんなに恐れておいでですか、そのウチュウジンというのはいったいなんなのですかと矢継ぎ早に聞けば、よくわからないと肩をすくめるばかりでそれきり俯いて何も言わなくなってしまった。
私はいよいよああこの人は本当に狂ってしまわれたのかと思いそのまま部屋を飛び出し、廊下を走りその一番隅の隅で足下から崩れ落ち恥も外聞もなく泣き喚いた。

そして死の数日前のことである。
朝、部屋に足を踏み入れたと同時に彼は私を口汚く罵り始めたのだ。
曰く、お前はいかにも主のためを思って立ち働いているように振る舞って本当はぼくを陥れようと裏で手を引いているのだろう、そうしてぼくを馬鹿な男と見下して笑っているのだろう、と。
年寄り特有の被害妄想と片づけるにはあまりにも苦しげで切羽詰まった様子だったので、私は沸き上がる悲愴感を押さえることができなかった。同時にこんなに身を粉にして働き、尽くしてきたのに自分は全く彼に信用されていなかったのだと知り、もう溢れ出る涙を止めることができなかった。
痩せ衰えた王の手を取り私がそんな義理を欠くような真似をしたことが一度だってありましたかと喚いた。彼もそんな私の姿を見てぼろぼろと涙をこぼし始め、疑ってすまなかった私が全て悪かったのだすまない許してくれと繰り返した。
大の男が二人、白髪の混じり始めた頭を寄せ合っていつまでもぐずぐずと咽び泣き続けていた。
そして彼は死んだ。そして今私はやっとその死に顔を覗き込んでいる。
お世辞にも穏やかとは言い難い顔だった。吐血の跡はすっかり拭われていて綺麗なものだったが眉間に刻まれた皺はなかなか消えず口元も苦悶を吐き出すように醜く歪んでいる。
してみると、彼は未だ悪夢の中を彷徨い続けているのだろうか。
あの性格の殊更悪い私と、無断で遊びに出てしまう武将たちと、ウチュウジンとやらが存在する不可思議極まりない悪夢の中を。
そこから抜け出す術を果たしてこの人は持ち合わせているのだろうか。その術があるとしたらいったいそれはどのようなモノなのだろうか。
私にはわからない。わからないからこそただ祈ることしかできないのだ。どうかこの人を無事次の世へとお導きください、と。

「貴方は本当に哀れな人だ。悲しい人だ。寂しい、人だ。せめて今だけ夢も忘れて、ゆっくりおやすみなさい、劉備殿」